第21話 解体の理と、150万の報酬
結羽は愛用している解体用ナイフを右手にしっかりと握り直し、長剣の柄の根元――どす黒く脈打つ赤黒いシミがこびりついている部分へと顔を限界まで近づけた。
普通の人間なら、この距離で瘴気を直接吸い込んだだけで目眩を起こし、数秒で精神を蝕まれて発狂するだろう。
黒田ですら、ハンカチで口元を押さえて数歩後ろに下がっているほどだ。
だが、同位同食でダンジョンの環境に完全に最適化され、ドレイクの仙気を取り込み続けている結羽の肉体は、この程度の瘴気では全く揺るがなかった。
(……見える。剣の装飾の金属の継ぎ目に、魔獣の骨の欠片と、変異した魔石の粉末が、血の糊でガチガチに固まって食い込んでるんだ)
結羽の研ぎ澄まされた瞳は、熟練の外科医のように、呪いの「核」となっている物理的な異物の構造を完璧に捉えていた。
魔力を視ることはできなくても、物質としての歪みと理の乱れが、彼女にははっきりと手に取るようにわかるのだ。
「……いきます」
結羽は短く息を吐き出し、呼吸を完全にコントロールした。
心拍数を落とし、指先の震えを仙気で完全に固定する。
そして、ナイフの極薄の刃先を、長剣の柄と刀身のわずか数ミリの隙間へと、滑り込ませた。
カリッ、と。
微かな、本当に微かな金属音がリビングに響く。
「力任せに抉り出すなよ。刃の角度とテコの原理を使って、異物の方から浮き上がらせるように誘導しろ」
ドレイクの背後からの静かなアドバイスに従い、結羽はナイフの柄を軽く指先で転がし、刃の角度をミリ単位で絶妙に調整していく。
手首の返し、指先の微細な力の入れ具合。
それは、ハズレ枠の荷物持ちとして扱われていた半年間、マメだらけの手で魔獣の解体の真似事を一人で繰り返してきた、あの泥臭い努力の結晶だった。
『……結羽殿、あと0.5ミリ右へ。そこが異物の重心の要です。そこを起点に、下から上へ』
ジャージのポケットから、黄龍の的確なナビゲートが念話で飛ぶ。
結羽はそれに無言で頷き、スッと刃を滑らせた。
パリッ、という乾いた音。
それは、呪いの鎖が断ち切られた音だった。
赤黒いシミの中心にあった、米粒ほどの大きさの変異魔石の欠片が、剣の隙間からポロリとこぼれ落ちた。
「……核は、取れました」
結羽がピンセットでその欠片をつまみ上げ、用意していた魔力遮断の小瓶に隔離する。
途端に、長剣から放たれていた強烈な瘴気の放出が、風船がしぼむようにスッと弱まった。
「よし、一番厄介なクサビは摘出した。次は内功の出番だ。金属の隙間に残ったしつこい汚れを、お前さんの仙気で洗い流せ」
「はいッ!」
結羽はナイフを置き、長剣の柄の部分を両手で優しく包み込んだ。
目を閉じ、丹田の奥底から温かい熱の塊を引き上げ、長剣の金属の内部へとゆっくりと浸透させていく。
『……澄み切った水面をイメージし、淀みを濾し取るのです。力で押し込むのではなく、金属の性質に寄り添うように。川のせせらぎのように、優しく、穏やかに』
黄龍のサポートを受けながら、結羽は不純物を取り除き、純粋な形へと昇華させる『浄化』の理を剣に注ぎ込んだ。
瘡蓋が剥がれるかのように、表面にこびりついていた瘴気がひび割れ、めくれ上がり、そして消えていく。
黒田は、息を呑んでその光景を見つめていた。
(信じられない……。魔法陣も詠唱もなしに、ただ物理的なアプローチとわずかな『気』の操作だけで、あれほど強固だった呪いの核を摘出してしまうとは。我々がこれまで信じてきた、スキルレベルや魔力ステータスという枠組みは、一体何だったというのか……)
黒田の中で、既存の常識が音を立てて崩れ去っていくのを感じていた。
数分後。
結羽の掌から放たれていた淡い青白い光がスッと収まると、リビングを覆っていた重苦しい空気は完全に消え去っていた。
「……終わりました。おやっさん、黒田さん、確認をお願いします」
結羽が息をついてテーブルの上に置いた古代の長剣は、先ほどの禍々しい姿が嘘のように、ミスリル銀の刀身が鏡のように美しく輝いていた。
清浄で鋭い魔力だけが、剣の内部を静かに脈打っている。
「……おお……!」
黒田が感嘆の声を上げて歩み寄り、専用のルーペで剣を食い入るように観察する。
「素晴らしい……。刀身の金属疲労は一切なく、呪いの核だけが完璧に切除され、浄化されている。協会最高位の付与魔術師たちが束になっても不可能だった『解呪』を、これほどまでに美しく、しかもこれほど短時間で成し遂げるとは……」
黒田はルーペを下ろし、結羽に向かって深く、そして心からの敬意を込めて一礼した。
「前山田結羽様。貴女のその類まれなる解体の技術と魔力制御は、間違いなく至宝です。一人の査定員として、これほどの見事な仕事を見せていただいたことに、深い感謝を申し上げます」
「あ、ありがとうございます……!」
結羽は照れくさそうに笑い、頬をかいた。
器用貧乏と蔑まれていた自分の技術が、誰かの役に立ち、その道のトッププロフェッショナルから正当に評価される。
その喜びは、何物にも代えがたいものだった。
学校での落ち込みなど、もうどこかに消え去っていた。
「へっ。俺の教え子だからな。これくらいは朝飯前だ」
ドレイクが自慢げに鼻を鳴らす。
黒田はジュラルミンケースの横に、分厚い和紙の封筒を差し出した。
「こちらが今回の依頼の報酬です。規定の解呪費用に加え、私個人の心ばかりの謝礼を上乗せさせていただきました」
封筒の中には、150万円の現金が整然と収められている。
結羽は、その重みをしっかりと両手で受け取り、深く頭を下げた。
「黒田さん、本当にありがとうございます! これでまた、美味しいお肉がいっぱい買えます! あと、ふゆのこれからの病院代やリハビリ代も!」
「カッカッカ! 違いねえ! 食費も馬鹿にならねえからな! よし、今日は特売の豚肉に加えて、お前さんの初任給祝いの極厚ステーキも焼いてやるぜ!」
『よろず屋ドレイク』のメンバーとしての初仕事は、大成功に終わった。
ステータスというシステムに依存せず、泥臭く磨き上げてきた物理の理と仙術。
それが社会で通用することを、はっきりと証明できたのだ。
彼女に残された第一段階の最後の壁。
それは、妹のふゆから意識を奪い、今も野田ダンジョン深層に君臨している因縁の牛頭獣――ミノタウロスを、自らの手で単独撃破すること。
万能戦士として己を証明するための、本当の卒業試験が近づいていた。




