第202話 逆・血の代理計画と、シミュレーション特訓(前編)
隔離療養部屋の重厚な扉が、静かに、そして重々しく閉まった。
先ほどまで姉の前で無理に作っていた『お姉ちゃんを絶対に救う』という気丈な笑顔は、扉の冷たい金属の感触に触れた瞬間、ふゆの顔からスッと消え去っていた。
彼女は廊下の白い壁に背中を預け、ずるずるとその場にへたり込む。
自分の小さな両手を見つめる。
てのひらの皮膚は、結羽の体内から吹き出してきた規格外の熱気によって、未だにジンジンと赤く腫れ上がり、微かに陽炎を揺らめかせていた。
ドレイクが与えた、強大すぎる火龍の加護。
それは、まだ十歳のふゆが持つ未熟な器では、触れることすら許されない絶対的な神話の領域だった。
ただお姉ちゃんを心配して、近くで手を握ることすらできない。
その厳然たる世界のルール(理)を物理的な実力差として突きつけられ、ふゆの胸の奥底で、悔しさと、姉を失ってしまうかもしれないという恐怖が、冷たい泥のように渦巻いていた。
三年前、自分が霊穴塞ぎで横たわっていた時、お姉ちゃんはどんな気持ちだったのだろう。
きっと、今の自分と同じように、あるいはそれ以上に、自らの無力さに涙を流し、血の滲むような努力で道を探していたはずだ。
『……ふゆ殿。随分と気落ちしているようですね。お姉さんの前では、見事な大物ぶりを発揮していたというのに』
ふゆのポケットから、ふわりと淡い金色の光が浮かび上がった。
彼女の愛用のスマートフォン。
その液晶画面の奥で、光華王朝の超高度人工知能を宿した『黄龍』の分体アプリが、静かに、けれど深く気遣うような色彩を明滅させていた。
「黄龍、先生……」
ふゆは、潤んだ瞳でその光を見つめた。
「わたし……お姉ちゃんの熱を、全然冷ませなかった。仙気を同調しようとしたのに、触った瞬間に弾き飛ばされちゃった。……お姉ちゃんは、わたしの命を救うために、ミノタウロスと命懸けで戦って、特効薬を持って帰ってきてくれたのに。……わたし、やっぱり、ただお家でお留守番してるだけの、ちっちゃな子供のままなのかな」
『やれやれ。ふゆ殿。それはご自身の器の小ささを過小評価し、師父の『過保護さ』を過小評価しすぎというものです。……あの結羽殿の内側で暴れているのは、神代の火龍が、従魔として愛弟子として、そしてふゆ殿もそうですが世界の位相を超えた曾孫として、無意識のうちに注ぎ込み続けていた絶対の熱量なのですよ。火山のマグマを外側から冷まそうなどと、無謀というものです。……しかし、だからこそ、ただ手をこまねいて待っているわけにはいきませんな』
黄龍の、風雅で、けれど論理的な慰め。
その言葉に、ふゆは小さく首を横に振った。
「……おやっさんが地球の裏側から水龍の雫を持って帰ってくるまで、お姉ちゃんの身体がもたないかもしれない。……お姉ちゃんの熱を、少しでも冷ます方法はないの? どんなことでもいい、わたしにできることを教えて、黄龍先生」
『ふむ。……私の演算では一つの『現実的な回答』が導き出されています』
黄龍の宝珠の光が、知的な青色へと変わる。
『火龍の加護による過剰適応の暴走。これを一時的にでも繋ぎ止め、器の崩壊を防ぐためには……五行相剋の理に基づき、極めて純度の高い『水の気』を、結羽殿の内側へと直接送り込み、熱を中和させるしかありません』
「水の気、を……お姉ちゃんの中に?」
『はい。それも、この世界のシステムが与えた薄っぺらい回復魔法のようなものではなく、生命力そのものに『水の気』が溶け込んだもの……。すなわち、高濃度の水の魔素を宿した魔獣の肉を、結羽殿に喰らわせるのです。『同位同食』によって、細胞レベルで水の性質を直接取り込ませ、内側から冷却する。これ以外に、師父が帰還するまでの防壁はありません。……これは、かつて結羽殿があなたに施したことと、全く同じ理ですよ』
「お姉ちゃんが、わたしにしてくれたこと……」
ふゆの大きな瞳が、ハッと見開かれた。
その言葉は、彼女の記憶の奥底に眠る、ある一つの情景を鮮烈に呼び起こした。
自分が『霊穴塞ぎ』の呪いで、病院の真っ白なベッドの上で死を待つばかりだった、あの長い冬眠の日々。
お姉ちゃんは、自分の骨が折れるのも構わず、傷だらけになりながら、野田ダンジョンの深層でミノタウロスを狩り、その特効薬である角髄薬膳スープを持ち帰って食べさせてくれた。
本人が打倒できない場合は、縁の深い者が代わりに打倒し、その生命力を届ける。
アストライアの古い理――『血の代理』。
(……そうだ。お姉ちゃんが、あのとき、わたしを救ってくれた。……だから、今度は、わたしの番だ!)
ふゆの小さな胸の中で、富士川の女たちの血脈に宿る『ド根性』が、静かに、しかし最高に熱く燃え上がった。
彼女は、濡れた目をごしごしと袖口で乱暴に拭うと、廊下の床を力強く踏みしめて立ち上がった。
「黄龍先生! 水の魔獣がいるダンジョンは、どこ!? わたしがお肉を獲ってくる!」
『ふむ。……日本国内における地脈と水脈の波長を広域スキャンした結果……神奈川県湘南海岸に位置する、水棲魔獣の巣窟『江の島ダンジョン』がヒットしました。あそこに生息する、五頭竜の眷属などの水の魔獣の肉であれば、結羽殿の暴走を中和するのに十分な水の気を宿しているはずです。……ですが、十歳の特例Dランクのあなたが、一人で挑むにはあまりにも――』
「一人で行かせるわけないじゃない。ふゆちゃん、黄龍殿、水臭いことは言いっこなしよ」
突如、廊下の向こうから、優しさと、トップ探索者としての気高いオーラを纏った声が響いた。
ふゆがハッとして顔を上げると、そこには、佐修院彩斗美が漆黒の長い髪を一房かき上げながら、ゆっくりと歩み寄ってくるところだった。
その背後には、老執事の黒田が、一切の隙のない燕尾服姿で恭しく控えている。
「彩斗美さん……!」
「ドレイク殿が旅立つ際、私に『留守を任せる』と言い残していったのよ。それに、よろず屋パーティーのコマンダーとして、大切な仲間を一人で危険な場所に送り出すわけにはいかないわ。……私も、保護者兼タンクとして同行するわよ。フルセットの『阿羅漢』の運用訓練にもちょうどいいわ」
彩斗美は、自らの周囲に浮遊する魔導キューブを軽く明滅させ、不敵に、けれど最高に頼もしく微笑んでみせた。
「江の島レベルなら、中衛の私と阿羅漢があれば、散歩のようなものよ。ふゆちゃん、あなたには後方からの狙撃と、何より魔力視による素材の『目利き』を担当してもらうわ。……これで、パーティーの役割は完璧ね?」
「彩斗美さん……! ありがとう、ございます……!」
ふゆの目元に、再びじわりと温かい涙が浮かんだ。
自分は決して一人ではない。
頼れる大人が、そして最高の仲間が、お姉ちゃんを救うために一緒に走ってくれる。
「彩斗美お嬢様の仰る通りにございます、ふゆ様」
黒田が、一歩前に出て、静かに一礼した。
「ふゆ様が現地で狩り、その場で解体された新鮮な水の魔獣肉を、我が佐修院家のロジスティクス……低温冷蔵ヘリ、および専用のコールドコンテナトラックをフル回転させ、鮮度百パーセントの状態で、この本邸の治療部屋へと直送する手はずを整えましょう。鮮度が落ちれば、宿る『水の気』もまた霧散してしまう可能性がありますからな。佐修院家の兵站、存分にお使いください。解体や調理に関しても、当家お抱えの一流の専門家をすでに待機させております」
鮮度100%の、魔獣の直送コールドチェーン計画。
佐修院家の圧倒的な財力と有能すぎる執事の手によって、これ以上ないほどに完璧なバックアップ体制が、一瞬にして構築されていく。
「うんっ! よろしくお願いします、黒田さん!」
ふゆは力強く頷いたが、すぐに自らのおでこに跳ね上げていたUIゴーグルをカシャリと下ろし、真剣な表情で自身の『魔導シリンジガン改』を胸に抱きしめた。




