第200話 結羽の隔離療養と、ふゆの焦燥(前編)
ドレイクが、弟子にして曾孫たる結羽を救うための不退転の覚悟を胸に、成田国際空港から中東経由の窮屈極まるエコノミークラス便へと乗り込み、遥か地球の裏側へと旅立ってから、まだ半日も経っていない頃。
千葉県野田市にそびえ立つ、佐修院家本邸の最深部、周囲を何重もの魔力吸収障壁と、最新の中の最新の魔導生命維持装置に囲まれた特設の『隔離療養部屋』。
防音と防魔が徹底されたその清潔な室内は、外界の騒々しいセミの声すら届かない静寂に満ちていたが、代わりに、どこか生温かく、張り詰めたような熱気が空間の隅々にまで淀んでいた。
部屋の中央に置かれた、真っ白なリネンのシーツが敷かれた医療用ベッド。
そこに、日本最悪の魔境『新宿ダンジョン』で神話級亜種を撃破し、名実ともに特級探索者としての栄光を手にしたはずの少女、前山田結羽が横たわっていた。
「……はぁ……ぅ……あつ、い……」
結羽の愛らしい顔立ち、そしてシルクの薄手のパジャマから覗く華奢な四肢の隅々に至るまで。
赤黒く妖しく発光する、ドレイクが施したアストライアの光華文字と魔術回路の封印呪の墨書が、まさに耳なし芳一の如く、びっしりと隙間なく描き込まれていた。
ドレイクから与えられた『水龍の鱗のネックレス』が、結羽の鎖骨の間で青白く清涼な光を放ち、彼女の内側から噴き出そうとする極炎をかろうじて宥めている。
おかげで、一時は呼吸すら困難になるほどだった致命的な発熱自体は、どうにか一時的な小康状態を保っていた。
しかし、それでも彼女の体内で暴れ回る『過剰適応』――これまで喰らってきた同位同食の生命力と、ドレイク自身から無意識のうちに注がれ続けていた神話級火龍の強大すぎる熱量の衝突は、終わっていなかった。
結羽の意識ははっきりとしていた。
はっきりとしているからこそ、ベッドの上で指一本動かすことも制限されているこの『静寂』が、彼女にとってはどんな過酷な実戦修行よりも苦痛で、もどかしくてたまらなかった。
「もう、お姉ちゃん! 動いちゃダメって、佐修院の先生からも、おやっさんからもきつく言われてるでしょ!」
ベッドの脇に置かれた丸椅子に座り、結羽の火照った小さな手を、自身の両手で必死に包み込んでいた妹のふゆが、膨れっ面を作って結羽を睨みつけた。
ふゆのおでこには、お馴染みのUIゴーグルが跳ね上げられており、その傍らには、彼女の師でもある黄龍(アプリ分体)がインストールされたスマートフォンが置かれている。
「あはは……ふゆ、お、大げさだなぁ……わたし、もうお熱もだいぶ下がったし、からだもすっごく軽いんだよ? ほら、見ててよ」
結羽は、心配そうに涙をためている妹を安心させたくて、それ何より、自分がただの『役立たずのお荷物』に戻ってしまったかのような恐怖から逃れたくて、いつものように不器用に、なんでもないように笑って見せた。
彼女は、自分がどれほど異常な状態にあるのかを、全く無自覚だった。
結羽が自らの健在を証明しようと、ベッドのガードフレームへと、無造作に右手を伸ばした。
「ちょっとだけ、掴まって起き上がるくらいなら平気――」
ぎゅっ。
結羽の指先が、ほんの少し、本当にほんの少しだけ、スチール製のフレームに触れて、力を込めたその瞬間だった。
みし、みし。
ぐにゃり。
「あ……!」
結羽の口から、間の抜けた声が漏れた。
硬質な鋼鉄で作られ、魔導障壁すら施されていたはずの頑強なベッドフレーム。
それが、まるで夏の陽射しを浴びて生温かく溶けかかった粘土か、あるいは縁日の屋台で売られている水飴か何かのように、いとも簡単に、ぐにゃりとひしゃげ、結羽の細い指の形通りに完全に潰れてしまったのだ。
十数トンという、縛仙環の負荷を失い、さらに過剰適応によって限界突破してしまった彼女の『筋出力』。
それが、本人の意思やブレーキを完全に置き去りにして、暴走状態で外へと漏れ出してしまっている。
もし、今、結羽がふゆの手を本気で握り返してしまえば、愛する妹の華奢な骨など、木端微塵に砕かれてしまうだろう。
その世界のルール(理)を物理的な破壊として突きつけられ、結羽は、自らの右手を弾かれたように引っ込め、布団の中に隠すようにして身を縮めた。
「あーっ! もう、お姉ちゃん!! ベッドを壊しちゃって!」
ふゆが、あいた口が塞がらないといった様子で立ち上がり、ひしゃげたフレームの無惨な残骸を指差して、本気で怒った声を上げた。
「安静にしててって言ったのに! お箸もフォークも折ったり曲げたりしちゃうから、わたしがお給仕してあげてるのに、なんで勝手に動くの!」
「う、うぅ……ごめんなさい、ふゆ……わたし、そんなに力を入れたつもりは、なかったんだけど……」
結羽は、布団を顎のあたりまで引き上げ、シーツの中で小さく丸くなりながら、消え入るような声で謝罪した。
特級探索者。
新宿ダンジョンのスタンピードを止めた万能の戦士。
その輝かしい名声を手にしたはずの少女が。
今は、己の肉体の不自由さと、コントロールできない不気味な怪力に怯え、ただの『お荷物』に戻って、ベッドの上で縮こまっていた。
(わたし……全然ダメだぁ……)
結羽の胸の奥底で、かつて大手ギルド『青銀の翼』で「万年レベル1のハズレ枠」「使えない荷物持ち」と罵られ、泥をすすりながら歩いていた頃の、あの暗く冷たい自己嫌悪が、再び鎌首をもたげて這い上がってくる。
(おやっさんが、わたしのために、地球の裏側に行っちゃったのに…….ふゆも、彩斗美先輩も、黒田さんも、みんながこんなにわたしの面倒を見て、お世話してくれてるのに……)
自分は、ただの足手まといだ。
強くなったつもりでいたけれど、結局は、ドレイクという圧倒的な存在に守られていたから走れていただけに過ぎない。
黄龍から聞いた自分の症状は、自分が同位同食で取り込んだエネルギーを昇華できていない暴走状態のようなものだという。
つまりは自分の修行不足なのだ。
不甲斐ない。
ベッドのフレームすら普通の力で握ることもできない、化け物のような身体。
こんな身体で、どうやってダンジョンの深淵へと挑み、お父さんとお母さんを迎えに行くというのか。
結羽の長い睫毛が細かく震え、やがて、その大きな瞳から、堪えきれない涙がポロポロとこぼれ落ちて、真っ白なシーツへと小さな染みを作っていった。
「……ごめんなさい、ふゆ。わたし、やっぱり、全然だめだなぁ……」
布団に顔を埋め、子供のように肩を震わせて泣き始めた姉の姿を見て、先ほどまでぷんぷんと怒っていたふゆの表情が、スッと和らいだ。
「もう……お姉ちゃん。泣かないでよ。わたし、本気で怒ってるんじゃないんだよ?」
ふゆは、そっとベッドの縁に腰掛けると、結羽の涙で濡れた頬を、小さな、優しい手でそっとなぞった。
「お姉ちゃんのために、わたしがとびきり美味しいお粥を持ってきてあげたんだから。ほら、お顔を上げて。はい、あーんして!」
ふゆは、ベッドサイドのテーブルから、佐修院家のお抱えシェフが丁寧に炊き上げた、消化に良くて栄養満点のお粥の器を手に取った。




