第188話 特異点と、純白のコンテナ(前編)
新宿ダンジョンの最深部、鵺との死闘の痕跡が生々しく残る巨大なボス部屋から、隠蔽されたゲートを抜けたよろず屋パーティーの四人は、人類未踏の領域である最下層――『深淵層』、そしてその先の『超深淵』へと続くスロープを静かに下り始めていた。
防音仕様の隔壁によって、外の円形広場で本隊が魔獣の残党と死闘を繰り広げている喧騒は、すでに一滴のノイズすら届かない。
あるのは、静寂。
あまりにも重く、それでいて奇妙なほどに澄み切った、絶対的なまでの静けさだけが空間を支配していた。
「……おやっさん。なんだか、空気が急にすっきりしてきましたね」
先頭を歩く結羽が、鈍い銀光を放つ『如意黒閃』を両手で油断なく構えながら、不思議そうに鼻をヒクヒクと動かした。
つい先ほどまで彼女たちの五感を苛んでいた、新宿ダンジョン特有の下水のヘドロや、ドレイクのブレスによって焼却された魔獣達の臭いなどは、この領域に入った瞬間、まるで洗い流されたかのように完全に消え失せていた。
そこにあるのは、那須や赤城山の深淵で感じたものに近い、けれどそれらを遥かに凌駕するほどに澄み切った、純度の高すぎる『魔素』の匂いだった。
まるで、高原の朝露をそのまま吸い込んでいるかのように、冷たくて清冽な空気が肺の奥まで染み渡り、連戦で火照っていた肉体を内側から優しく冷却していく。
「ああ。ここは砂時計の最も細い『くびれ』の部分……アストライアとこっちの世界の位相が、限界まで重なり合って完全に調和している『特異点』だからな。これだけ魔素が濃けりゃあ、地球のゴミみたいな排気ガスもヘドロの臭みも、全部綺麗にろ過されちまうってわけだ」
ドレイクはジャージのポケットからタバコを一本取り出したが、火を点けることなく、ただ指先で弄びながら言った。
彼の黄金の龍眼は、暗闇の奥深くをじっと見つめている。
「それにね、お姉ちゃん。ここ、重力もすごく変だよ。下に向かって引っ張られる力と、上に向かって浮くような力が、ちょうど半分ずつで釣り合ってるみたい。足の裏が、ふわふわして気持ちいいなぁ」
ドレイクの広い肩の上から降りてきたふゆが、UIゴーグルの数値を読み取りながら、自身の小さな両手を広げて見せた。
確かに、彼女たちの足裏から伝わる感覚は奇妙だった。
手足に装着された『縛仙環(2セット目)』の十数トンの超重力を常に御し続けている結羽でさえ、ここでは体が羽のように軽く、まるで宇宙空間を漂っているかのような穏やかな浮遊感に包まれていた。
『ふゆ殿の観察は極めて的確です。アストライアの反重力式の魔導術式と、こちらの星の引力が、この特異点において完璧な『対称性』を維持している証拠ですな。これならば、結羽殿の縛仙環の制御負荷も、これまでの数分の一で済むはずです』
ふゆのスマートフォンから、黄龍の風雅で知的な念話が響いた。
「本当に。……まるで、神聖な神殿の奥深くに足を踏み入れたかのような静寂ね。新宿の地下に、こんなにも美しく澄んだ場所が眠っていたなんて、ギルドの連中には想像もつかないでしょうね」
彩斗美が漆黒のコートを翻し、16個の『阿羅漢』のキューブを周囲に静かに漂わせながら、感嘆の息を漏らした。
暗渠のホラーエリアやネオン街のような、醜悪で歪な『土地のバグ』はここにはない。
そこは、どこまでも澄んだ青白い結晶の輝きが壁面を覆い、中央へ向けてなだらかに下り落ちる、巨大な逆円錐状の美しきドーム空間であった。
壁面の結晶から放たれる青白い柔らかな光が、幻想的な世界を照らし出している。
そして、その円錐の底、すべての魔力の流れが集束する『特異点』の中心。
「お姉ちゃん、あそこ……!」
ふゆが、息を呑んでドームの底を指差した。
結晶の光に照らされて浮かび上がっていたのは、新宿のガラクタでも、アストライアの呪われた古代兵器でもなかった。
広大な石畳の中心に、整然と並べられた、汚れ一つない『純白のコンテナ』が三基。
それは、アストライアの最高峰の魔法金属で打たれた、強固極まりない物資保管用のパッケージだった。
「お父さん、お母さん……!」
結羽は、如意黒閃を手に握りしめたまま、吸い寄せられるようにしてその純白のコンテナへと向けて走り出した。
特異点の浮遊感のある重力下で、手足の縛仙環が放つわずかな質量をスプリングに変え、結晶の床を滑るようにして、一瞬でコンテナの目の前へと滑り込む。
ハッとして、結羽はコンテナの前にへたり込むようにして跪いた。
純白の魔法金属でコーティングされた、頑強なハッチの表面。
そこには、異世界の複雑な幾何学模様の刻印に混ざって、明らかに『手書き』と思われる、はっきりと黒いペンキのようなもので書かれた、不器用で、けれどこれ以上なく見慣れた文字が残されていた。
――日本語だった。
『結羽、ふゆ。無事でいますか。これはアストライアから送る、お父さんとお母さんからのプレゼントです。絶対に、あなたたちに会いに行くから。待っていてね』
丸みを帯びた、けれど一筆一筆に魂を込めたような、母・明の少しクセのある文字。
その隣に添えられた、ゼネコンの現場監督らしい、几帳面で力強い父・信彦の署名。
「お母さん……お父さん……っ、本当に、本当に生きてるよ……っ!」
結羽は、震える両手で、コンテナに書かれたその文字をそっと、壊れ物を扱うように優しくなぞった。
指先から伝わってくる、冷たい金属の感触。
だが、その奥にある文字からは、三年間ずっと彼女たちの心を満たしていた、あの温かい両親の体温が、確かに伝わってくるようだった。
「お姉ちゃん……っ!」
ドレイクの肩から転がるようにして降りてきたふゆが、結羽の背中にしがみつき、声を上げてわんわんと泣きじゃくった。
「本当にお父さんたち、生きてた……っ! アストライアで、わたしたちのために、こんなにたくさん荷物を、送ってくれたんだね……っ!」
「うん、うん……! 生きてるよ、ふゆ。お父さんもお母さんも、絶対にわたしたちに会いに来てくれる。これ、お母さんの字だもん。間違えるはずないよ……っ!」
二人の姉妹は、純白のコンテナの前に抱き合い、積年の孤独と不安をすべて洗い流すかのように、ボロボロと大粒の涙を流し続けた。
ハズレ枠と蔑まれ、泥にまみれて働き続けた日々。
真っ白な病室のベッドで、静かに扉を閉ざして冬眠し続けていた日々。
そのすべての過酷な『空白の三年』が、今この瞬間、コンテナに遺された愛する家族の文字によって、完全に救済され、温かな希望の光で満たされていく。




