第186話 香ばしき帰還と、大人の取引(前編)
キィィィィィン……。
新宿ダンジョン深層、最深部のボス部屋を仕切る巨大な金属扉の前に、張り詰めたような静寂が漂っていた。
つい先ほどまで円形広場を埋め尽くしていた、数万の魔獣による地鳴りのような咆哮。
そして、それらを防衛線の『要塞』となって受け止め続けていた、Sランク探索者たちの必死の怒号と魔導砲の爆破音。
それらのすべての喧騒は、よろず屋パーティーが扉の向こうへと消え、ほんの数十分の間に、奇妙なほどに沈静化しつつあった。
だが、防衛線を維持していた『白銀の軌跡』と『機巧の番犬』の面々には、安堵の表情など微塵もなかった。
彼らは一様に、ボロボロにひしゃげた防具を身に纏い、血と煤にまみれた顔で、ただ呆然とボス部屋の重厚な隔壁を睨みつけていたのだ。
あまりにも急激な、そしてあまりにも完璧な『沈黙』。
それは、中に潜む深淵への門番であり、誰も太刀打ちできないはずの神話級亜種『鵺』に、何らかの絶対的な事象が引き起こされたことを意味していた。
「……信じられん。魔素の異常波形が、完全に沈静化している」
葛城我門は、思考同調の過負荷によって鼻から吹き出していた血を、手の甲で乱暴に拭いながら、かろうじて復旧した魔導UIゴーグルの数値を何度も見直していた。
新宿ダンジョン全体の霊脈を狂わせていたあの圧倒的な質量波が、まるで嘘のように、完全に凪の状態へと移行している。
それは、深層の門番である鵺が、完全に『排除』されたことを示していた。
「佐修院先輩たちが、やったのでしょうか……。たった、4人のパーティーで……」
氷室怜華は、二振りの魔導双剣を握りしめたまま、信じられないものを見るように小さく震えていた。
彼女は、位相崩壊で分断された際、よろず屋の面々と合流し、下層の過酷な戦闘を共にしてきたからこそ、彼らの実力が既存の『Sランク』という数字の枠を遥かに超越していることを、誰よりも理解していた。
だが、それでも、数万の魔獣の波を焼き払い、最下層の門番をも数分でスクラップにしたとなれば、彼らの戦闘力はもはや『天変地異』そのものだった。
ズゴゴゴゴゴォォォォ……ッ。
突然、静まり返っていた広場に、重厚な金属の摩擦音が響き渡った。
ボス部屋を仕切る巨大な金属扉が、ゆっくりと、左右へとスライドして開いていく。
堂島誠は、傷だらけの魔導大盾を再び強く握り直し、葛城も過熱した多連装魔導砲の銃身を向けた。
誰もが、何が這い出てくるのかと、限界に近い肉体に鞭打って身構える。
緊張が、極限まで高まる。
だが、その暗い扉の向こう側から漂ってきたのは、禍々しい魔獣の瘴気でも、命を脅かす危険な有毒ガスでもなかった。
「……クンクン。……え?」
氷室怜華が、思わず、自身の鼻をヒクヒクと動かした。
漂ってきたのは、醤油とコチュジャン、そして複数の薬膳スパイスが炭火で焦げた、これ以上なく芳醇で、これ以上なく美味しそうな『焼肉のタレの匂い』だった。
しかも、ただのタレの匂いではない。
極上の脂身が熱い鉄板の上でジューシーに弾け、焦げ目をつけた、野生の暴力的な旨味が煮詰まったような、脳髄を直接支配する香ばしい匂い。
「な、何だ、この匂いは……!? 魔獣の瘴気じゃないぞ!?」
葛城が、魔導ゴーグルの数値を疑うように目をしばたたかせる。
その香ばしいタレの匂いを撒き散らしながら、扉の向こうから、のっそりと四人の影が姿を現した。
先頭を歩くのは、黒光りする『如意黒閃』を肩に担ぎ、ニコニコと健康的な笑顔を浮かべる前山田結羽。
その隣には、魔導シリンジガンを抱え、「あー、美味しかった!」と自らのお腹をぽんぽんと叩いているふゆ。
その後ろから、16個の魔導キューブ『阿羅漢』を周囲に優雅に浮遊させながら、口元をハンカチで上品に拭っている佐修院彩斗美。
そして最後尾には、空間収納袋を背負い、タバコを美味そうに吹かしながら歩いてくるジャージ姿の巨漢、ドレイク。
彼らよろず屋パーティーの四人は、これまで誰も為し得なかった新宿ダンジョンのボス戦をこなしたはずだというのに、傷一つ負っていない。
それどころか、肌はツヤツヤと輝き、全身から『焼肉をお腹いっぱい食べました』という、圧倒的なまでの満足感と生命力を放っていた。
「お待たせしました、堂島マスター、葛城マスター!」
結羽が、実に見事な、ツヤツヤの笑顔で手を振る。
「……あ、あの。結羽さん。……まさか、あなたたち」
氷室怜華は、ガクガクと震える指で、彼女たちが歩いてきたボス部屋の奥を指差した。
よろず屋の魔獣食――暗渠鼠の生姜焼き、機甲虎人の青椒肉絲、そして大王蝦蟇のガーリックソテーに、女王蜘蛛の炙り焼き。
それらの味を、骨の髄まで、そして胃袋の底まで叩き込まれてきた彼女にとって、この香ばしい匂いが意味する答えは、ただ一つしかなかった。
「あの新宿ダンジョンのボスを……鵺を……食べたの……!?」
「はい! おやっさんが、虎のカルビと狸のバラ肉と蛇のササミとハラミを、特製の味噌ダレを揉み込んで焼き上げてくれたんです! 一頭で三回も美味しい、すっごく最高の食材でした!」
結羽が、実にあっけらかんと、嬉しそうに答えた。
「は、はは……。あの、国を滅ぼしかねない神話級亜種を、……焼肉、にしたのね……?」
氷室は、白目を剥いてその場にへたり込みそうになった。
エリート探索者としての彼女の常識が、もはや跡形もなく粉々に粉砕されていく。
だが、衝撃を受けた以上に、ドレイク謹製の焼肉フルコースを食べてみたかったという羨望の念が、胃の腑から持ち上がるのを抑えられなかった。
隣に立つ堂島も、葛城も、よろず屋のあまりのマイペースっぷりと、それ以上に『本当に無傷で神話級を打倒した』という常識外れの戦闘力に、ただ顎を落として硬直するしかなかった。




