第180話 火龍の指先と、海割れの奇跡(前編)
ズズズズズズズズズンッ!!!!!
鼓膜を直接暴力的に抉るような重低音が、ひび割れたコンクリートの地下広場全体を激しく揺るがし続けていた。
深層のボス部屋へと繋がっていた巨大なゲートが、アストライアからの質量転送の過負荷に耐えきれず、内側から大爆発を起こして吹き飛んでから数分。
そこから這い出し、雪崩を打って押し寄せてくる魔獣の津波は、もはや数の概念を完全に喪失していた。
赤く濁った無数の魔眼。
狂乱に歪んだ牙と爪。
それらが地底の暗闇から無限軌道のように溢れ出し、重なり合い、文字通りの『黒い海』となって前線へと殺到してくる。
「ハァッ……ハァッ……! 『不落の城塞』、最大出力を維持ッ! 耐えろ、耐えるんだァッ!!」
最前線の中心。
『白銀の軌跡』のギルドマスター・堂島誠は、全身の骨格が悲鳴を上げるほどの重圧に抗いながら、特大の魔導大盾を石畳へとさらに深く叩き込んでいた。
ふゆが撃ち込んだ『融解・ブースト仙薬弾』と、彩斗美が展開した十六個の魔導キューブ『阿羅漢』のエネルギー補強。
それらによって黄金に再構築されたはずの絶対防壁には、殺到する巨大な甲殻魔獣や変異オーガたちの狂暴な突進が絶え間なく炸裂し、激しい黄金のスパークと共に、再び不吉な亀裂が走り始めていた。
堂島の腕の皮膚からは、過剰な負荷によって再びじわりと赤い血が滲み出し、首筋の血管が今にも破裂しそうなほどに太く浮き上がっている。
彼がどれほど不屈の重戦士であろうとも、相手は新宿ダンジョンの歴史上、類を見ないレベルの超大規模スタンピードなのだ。
「葛城……! 敵の数はどうなっている! 間引きは間に合わんのか!?」
堂島が、防壁を突き破ろうとする巨大な猪の牙を力任せに押し返しながら、背後へと絶叫した。
「ダメだ……! 砲身の冷却は完全に機能している! 私の脳の演算領域も、ふゆ君の薬のおかげでかつてないほどクリアだ! だが……それ以上に、湧き出しの速度が常軌を逸している!!」
『機巧の番犬』のリーダー・葛城我門は、過熱した二基の多連装魔導砲を駆動させ、熱線の嵐を絶え間なく掃射しながら、血走った目で自身の魔導UIゴーグルを睨みつけていた。
ふゆの回復弾によって、彼の視界に明滅していた脳の限界警告はすべて清浄な緑色のデータへと上書きされ、思考のノイズは取り除かれた。
だが、その研ぎ澄まされた『魔眼』が捉えている新宿の真実そのものが、彼を絶望の淵へと引きずり戻していた。
葛城のUI画面の左上で、狂ったように数値を更新し続ける【ENEMY_SCAN_DATA】の数列。
20000、30000……そして、50000へと到達する。
赤く染まった数列は、彼らがどれだけ熱線で魔獣を蒸発させようとも、一切の衰えを見せることなく爆発的に跳ね上がり続けていた。
「ハァッ……ハァッ! 『魔導砲式・天照』、多重ロック完了! 焼き尽くせッッ!!」
ズドォォォォンッ!!!
極太の熱線が幾重にも交錯し、殺到する魔獣の最前列を一直線に気化させ、肉の焦げる凄まじい悪臭と白煙を立ち昇らせる。
だが、その白煙を割るようにして、さらに凶悪な変異個体たちが、仲間の死骸を踏み荒らしながら次々と這い上がってくる。
それは、システムが正常に稼働している状態の彼らであっても、到底太刀打ちできないほどの『数の暴力』であった。
「冷気展開、最大ッ!……近づかせないわ!!」
防衛線の一角では、氷室怜華がよろず屋の同位同食による極上スタミナバフを全身にみなぎらせ、二振りの魔導双剣を鋭く振るっていた。
彼女が踏み込むたびに、足元のヘドロ混じりの床がバリバリと青白く凍りつき、魔獣たちの動きを遅延させていく。
しかし、その感覚凍結の刃を以てしても、敵の波は厚すぎた。
数体の動きを凍らせて動きを止めても、その背後からさらに十体、二十体の魔獣が、仲間の氷塊を押し潰しながら津波のように押し寄せてくるのだ。
(……なんて量なの。これが、新宿ダンジョンの本気だとでもいうの……!?)
氷室は、双剣を構え直し、じわじわと後退を余儀なくされながら、その顔に絶望の色をにじませていた。
◆◆◆
その頃、要塞と化した防衛線のすぐ後方。
比較的魔力波長の安定したセーフエリアの一角で、ふゆは、倒れ伏す魔力タンク班の探索者たちのトリアージと、カプセル薬の投与を一通り終え、額の汗を小さな手で拭いながら、ようやくホッと一息ついていた。
「……ふぅ。これで後衛のお兄さんたちは、みんな少しは落ち着いたかな」
彼女のテキパキとした指示と、黄龍と調合した特製カプセルによる魔力回復サポートにより、後方で泡を吹いて昏倒していた魔術師たちは、全員が奇跡的に息を吹き返し、再び堂島・葛城への魔力接続ラインを繋ぎ直していた。
後方支援としての責任を全うした少女の顔には、確かな充実感と、やり遂げた誇らしさが満ちていた。
ふゆは、自身のスマートフォン――黄龍の分体を取り出すと、その液晶画面を真剣な表情で操作し始めた。
「黄龍先生。……地上の、お外の様子はどうなっているかな?」
『承知いたしました、ふゆ殿。……現在、新宿ダンジョンの周囲一帯には、極めて濃密な魔素異常によるジャミングが吹き荒れておりますが、我々特製の回線で協会の非常用定点ドローンの通信プロトコルをジャックできます……接続を確立。これより地上の映像を投影します』
ふゆのスマートフォンのレンズから、青白い幾何学的な光華文字の回路が放たれ、不気味な暗渠の空間へと、リアルタイムの立体ホログラム映像が浮かび上がった。
「わ、すごい! おやっさん! 剛田のおっさん達も上ですごい頑張ってるよ!」
ふゆが、その映像を覗き込み、驚きの歓声を上げた。
ホログラムの映像の向こう側。
新宿ダンジョンの地上エントランス周辺。
深層から押し出され、ダンジョンの構造の隙間から這い上がってきた無数の下級魔獣の群れが、地上の街へと溢れ出そうと、牙を剥いて突進を繰り返していた。
その黒い津波を、自衛隊の防衛線が構築される前の最後の壁として、真正面から受け止めていたのは、那須の洗脳から救われ、自らの意志でこの防衛線を買って出た、A級ギルド『赤銅の牙』の剛田たちだった。
彼らはAランクギルドとしての実力はあるものの、この圧倒的な魔獣の量と、中層からのカスケード現象による圧力には、完全に押し潰されそうになっていた。
防具はボロボロにひしゃげ、肌は魔獣の爪や酸によって焼け爛れている。
それでも、彼らは歯を食いしばり、一歩も引かずに前線を死守していた。
情報統制下にあるとはいえ、これほどの異変を完全に隠し通すことはできない。
だからこそ協会は、「事態はコントロール下にある」と市民を安心させるための公式配信を許可しており、彼らはカメラの前では獰猛に笑い、安心感を与えるための『道化』の役目を、自らの意志と誇りで全うしていた。
ドレイクは、ゆっくりと歩み寄り、そのホログラム映像を炎金に輝く龍眼で静かに見つめた。
「……おやっさん?」
ふゆが、おやっさんの顔を見上げる。
「……ああ。たいしたもんだ。ふゆ、今前線で戦っている連中も、血反吐を吐きながら前線に力を送っている連中も、上で堪えている連中もだ。あいつらの顔をよく覚えとくんだぜ」
ドレイクの低い、嗄れた重低音の声が、戦場の喧騒の中で不思議なほど重々しく響いた。
「顔を?」
「ああ、そうだ。誰かを護るために必死で戦っている一人前の戦士の顔だ。自分の限界を知りながら、それでも誰かのために命を張って、カメラの前で道化を演じてみせる。……どの世界どの時代でも、そいつらのツラと魂は気高く、賞賛に値するもんだからな。ふゆ、お前さんがこれからもダンジョンに挑み続けるなら、こいつらの面魂を忘れちゃなんねえぜ」
ドレイクは、映像の中で血泥にまみれながら笑う剛田たちの背中に、かつてアストライアで見てきた、そして自分に背中を預けて死んでいった愛すべき人間たちの『闘魂の系譜』を重ね合わせていた。
システムやステータスという安っぽい数字の檻に閉じ込められているくせに、いざとなれば、そんな数字の限界など意地と誇りだけで蹴り飛ばして、命を燃やす。
(へっ……。世界の番人だのバランサーだの……そんな行儀のいいおっさんに収まってろって方が、無理な相談だぜ)
ドレイクの胸の奥底が、熱く、熱く焦がされる。
「……はい!!」
ふゆは、ドレイクの言葉の重みをしっかりと受け止め、力強く、何度も頷いた。
その幼い瞳には、ただ守られるだけだった少女から、誰かを支える本物の戦士へと成長した、確固たる『面魂』が確かに宿っていた。
ドレイクは満足げに小さく鼻を鳴らすと、口にくわえていたタバコを、指先からの極小の熱量で一瞬にして無音で炭化させ、そのまま携帯灰皿へと静かに落として蓋を閉じる。
そして、最前線へと向けてゆっくりと歩み出た。
その巨大な背中から立ち上るプレッシャーが、静かに、しかし決定的に変質していく。




