第176話 深層への帰還と、超大規模スタンピードの発生(前編)
無数の魔獣の咆哮と、金属が激しく軋み合う狂騒の中に完全に掻き消されていく。
東京都庁の真下に広がる、日本最大にして最悪の魔境『新宿ダンジョン』。
その中層と深層を隔てる巨大な円形広場は、すさまじい激戦の爪痕と、濃厚な血と硝煙の生臭い匂いに完全に包み込まれていた。
空間を切り裂くような、アストライアからのオーバーフローによる『位相の崩壊』。
その強烈な魔力異常によって、本隊を率いていたS級ギルドの精鋭たちは、致命的な窮地に立たされ、絶え間なく這い上がってくる魔獣たちとの防衛戦で極限までリソースを削り取られていた。
「ハァッ……ハァッ……! 葛城、次の波はどうなっている!?」
身の丈ほどもある特大の魔導大盾を地に突き立て、肩で激しく息をしているのは、関東トップのS級ギルド『白銀の軌跡』のギルドマスター、堂島誠だ。
彼の誇る強固な大盾には無数の傷とひび割れが深く刻まれ、周囲のコンクリートの床には、下層から押し出されてきた変異魔獣たちの死骸が山のように積み重なっている。
大盾の隙間から漏れ出た魔獣の爪が、彼の頑強な肩当てを砕き、生々しい血が腕を伝って流れ落ちていた。
「ダメです……! 空間の魔素濃度が異常すぎて、戦術タブレットも、私のUIゴーグルも、真っ赤なエラーコードを吐き出すばかりで完全に機能不全に陥っています!」
神奈川のS級ギルド『機巧の番犬』のリーダーである葛城我門が、血走った目で片眼鏡型のデバイスを苛立たしげに何度も叩きながら、焦燥の声を上げた。
彼らS級探索者の強さの根幹は、最新鋭のシステムによる緻密な戦術演算と、完璧なステータス管理にある。
その『システム』という絶対の道標が、未知の魔力異常によって完全に沈黙し、盲目にされてしまったのだ。
葛城の右目を覆う魔導UIゴーグルには、激しいノイズと共に、【CEREBRAL OVERFLOW】という脳の限界を示す赤い警告が狂ったように点滅を繰り返している。
新宿ダンジョンという巨大なブラックボックスの深部から立ち上る異常な魔素は、葛城がアストライアの遺物パーツを組み込んで魔改造した自慢のデバイスにさえ、許容量を超える致命的な過負荷を強めていた。
葛城はゴーグルの下から一筋の鼻血を流しながら、過熱して白煙を吹き上げる戦術鉢金に耐え、それでも必死に魔導砲の照準を合わせようとしていた。
「第二陣列、冷却を待つな! 魔力バイパス強制開放! 『魔導砲式・天照』、最大出力で放射ッ!!」
ズドォォォォンッ!!!
葛城の両肩に懸架された二基の多連装魔導砲から、白熱する極太の魔力熱線が放たれ、殺到する巨大な猪や甲殻魔獣たちの最前列を一直線に焼き払った。
だが、そんな圧倒的な破壊の矛をもってしても、魔獣の海は一瞬にして新たな群れによって埋め尽くされてしまう。
この絶望的な防衛線をかろうじて死守できているのは、Sランクギルドの威信と、何より東京の数百万の一般市民の命を救うという、プロとしての泥臭き『意地』、そして非人道的にすら思える『人間魔力タンク』の戦法によるものだった。
「第四班、魔力供給限界! ただちに後方へ退避させろ!」
「第五班、魔力パス接続開始!」
広場の後方、葛城の背中に繋がれた太い有線の魔力ケーブルの先では、数十人の部下たちが交代制で自身の魔力を、自らの霊脈を引きちぎる思いで葛城のデバイスへと送り込み続けていた。
魔力を限界まで搾取され、脳を焼かれるような感覚と激しい魔力酔いによる嘔吐に耐えかね、白目を剥いてバタバタと倒れ込んでいく部下たち。
その倒れた者たちを、即座に別の者が引きずって安全圏へと回収し、高価な魔力回復ポーションを口に強引に流し込んで、強制的に回復させていく。
魔力が戻れば、彼らは再びケーブルを繋いで前線への供給ラインへと戻されるのだ。
本来ならば、ポーションを飲んだ後は静かに経絡を休ませなければならない。
だが、彼らは代わる代わる床に倒れ伏し、血を吐くような思いで魔力を繋ぎ、堂島と葛城に魔力をパスし続けている。
それは、システムに依存してきたエリートたちが、システムを奪われた極限状態で見せた、文字通りの凄惨な総力戦であった。
「クソッ……ここまで、なのか。氷室も、彩斗美君たちも、あの位相崩壊に巻き込まれて、一体どこへ……」
堂島が、限界を迎えていた大盾の背後で、ギリッと唇を噛み締めて俯きかけた、その時だった。
ズガァァァァァァァンッ!!!!
広場を囲む、頑丈なはずの分厚いコンクリートの壁が、内側からの暴力的な衝撃によって木端微塵に吹き飛んだ。
凄まじい爆風と瓦礫の煙の向こう側から現れたのは、傷一つないばかりか、圧倒的な魔力と活力を全身から立ち昇らせているよろず屋パーティーの四人と、そして、氷室怜華だった。
壁を破壊した勢いのままに、黒銀の旋風と化した結羽が、魔獣の波へ突っ込み、その全てを蹂躙しはじめた。
側方からの嵐のような暴力によって、『白銀の軌跡』と『機巧の番犬』が抑え込んでいた波の圧力が一時的に弱まった。
「れ、怜華……!? 無事だったのか! しかも、その肌のツヤと、全身からみなぎる異常な魔力は一体……?」
葛城が、信じられないものを見るように目を見張る。
破砕された壁から駆けてきた氷室怜華は、激戦に次ぐ激戦で、ボロボロに疲弊しきっている本隊の面々に対し、傷一つないばかりか、お肌はツヤツヤと輝き、まるで最高級の温泉宿で極上のエステとフルコースを堪能してきたかのような、圧倒的な生命力と活力を放っていた。
彼女の全身から溢れ出す魔力の密度は、システムがダウンしている葛城の目から見ても、以前とは比較にならないほどに底上げされているのがはっきりとわかった。
「え、ええっと、あの……これは、転移で飛ばされた先で色々と『理』を喰らいまして……」
氷室は、先ほどまで巨大な暗渠鼠の生姜焼きや、女王蜘蛛の脚肉カニ風浜焼き、そして大王蝦蟇のガーリックバターソテーを、両手と顔を油まみれにしながら夢中で貪り食っていたことを思い出し、カアァッと顔を真っ赤にして視線を泳がせた。
エリートとしてのプライドよりも、完全に胃袋を掌握され、未知のゲテモノダンジョン飯の圧倒的なバフ効果に酔いしれていた自分を、口が裂けても上司に説明できるはずがなかった。
「彩斗美さん……一体どうやって、位相崩壊の歪みを突破してきたんですか?」
葛城が、理解不能といった表情で彩斗美へと問いかける。
「私たちの最新鋭の魔導デバイスは完全にバグって、魔力波長の計測すらできないというのに……あなたたちのパーティーからは、一切の疲労も、物資の枯渇も感じられない。それどころか、あなたを護るその魔導キューブは、この異常な空間の中でも完全に安定している……!」
葛城の視線は、彩斗美の周囲を幾何学的な軌道で浮遊する16個の銀色の魔導キューブ――アストライアの遺物である『阿羅漢』へと大いなる関心と共に釘付けになっていた。
彩斗美は、かつてのSSランク・コマンダーとしての威厳に満ちた、氷のように冷たくも優雅な微笑みを浮かべた。
「システムが吐き出すエラーコードに怯え、手元の画面ばかり見ているから、本当に見るべきものを見失うのよ。……ダンジョンの『理』は、足の裏から伝わる重心、空気の匂い、そして五感のすべてを研ぎ澄ませて読めば、数字なんてただの道しるべに過ぎないわ……とはいえ、かつて最前線にいた頃の私も、今のあなた達と同じようなものだったのだけれどね」
彩斗美は、かつての自らの過去を思い起こすようにクスリと微笑み、深い余裕をにじませた。




