第174話 浜焼きカニ風と、限界突破の安全弁(前編)
戦闘の狂騒が去った空間に、再び陰湿で水滴が落ちる湿った静寂が戻ってきた。
佐修院彩斗美の『阿羅漢』による魔導結界が周囲に展開され、地下下水道特有の下水の臭気や澱んだ魔素が、青白い光の防壁によって完全に遮断されていく。
その清浄に保たれた即席のセーフエリアの中で、ドレイクは、短くなった魔素フィルター付きのタバコの灰を親指の爪で小さく弾き、ゆっくりと最後の紫煙を吐き出した。
そして、携帯灰皿の蓋を静かに閉じて煙を閉じ込めると、黒鋼の大型剣鉈を構えて食材と向き合う。
「よし、傷一つつかずに極上のパーツが手に入った。鮮度が落ちねえうちに、さっさとバラしていくぞ」
ドレイクは獰猛な笑みを浮かべ、大王蝦蟇と女王蜘蛛の死骸へと歩み寄る。
結羽が関節の繋ぎ目だけを正確にバラしたため、女王蜘蛛の極太の八本の脚は、殻にヒビ一つ入ることなく、美しい形のまま綺麗に切り離されていた。
ドレイクは黒鋼の大型剣鉈を滑らせ、大王蝦蟇の引き締まった極上の太もも肉をスパスパと切り出し、続いて女王蜘蛛の脚肉も、殻の継ぎ目にそって無駄なく切り分けていく。
「蜘蛛と、カエル……。嘘でしょう。私はS級ギルド『機巧の番犬』のサブリーダーですよ……!? そんな、見るからにおぞましいゲテモノを食べるわけが――」
双剣を鞘に収め、鼠肉と虎肉を食べた上で性懲りもなく顔を青ざめさせて後ずさる氷室に対し、彩斗美は漆黒のコートを優雅に揺らしながら、くすりと微笑んだ。
「ふふっ、怜華。ドレイク殿の言う通り、この新宿の濃い魔素を吸って育った獲物こそが、私たちの身体を完全にこの環境に適応させるための最高の鍵なのよ。騙されたと思って、おやっさんの『理』の調理を見ていなさい」
「佐修院先輩まで……。どうしてそんなに平気なんですか……」
氷室が絶望的な声を上げる中、ドレイクの肩に座っていたふゆが、魔導シリンジガン改を構えて目を輝かせた。
「おやっさん! 五行の調合スプレー、準備できてるよ!」
「おう、頼むぜ。まずは蜘蛛の脚からだ。そいつの溜め込んだ冷たい陰の気、まぁ麻痺毒だな。それは俺の『火』の仙気で炙り飛ばして、完全に『陽』へと転じさせる。……ふゆ、外殻を柔らかくする中和剤を吹きかけろ!」
「はーい! 極限希釈スプレー、噴射!」
ふゆがスプレーボトルをプッシュして、大王蝦蟇の強酸を極限まで希釈した特製のアルカリ中和剤を、女王蜘蛛の極太の脚へと万遍なく吹き付けた。
ジュウゥゥッ、と微かな化学反応の音が響き、鋼鉄のように硬かった甲殻の表面が一瞬にして柔らかく、しなやかに変質していく。
「よし、これで殻が剥きやすくなった。あとは仙気で浄化して、網の上でじっくりと炙り焼きにするだけだ」
ドレイクは、第三世代魔導コンロの上に特大の金網をセットした。
その上に並べられた蜘蛛の脚が、ジワジワと赤く色づき始める。
甲殻が焦げていく、香ばしくも濃厚な、磯の香りを伴う芳醇な匂いが、結界のドーム内に一気に立ち上った。
「うわぁっ……! すっごく甘くて、香ばしい匂い! まるでお正月に食べた、本タラバガニを焼いているみたいです!」
結羽が目を爛々と輝かせ、網の上の獲物をのぞき込む。
「カッカッカ! 違いねえ。蜘蛛は分類上カニの親戚みたいなもんだからな。魔素を吸って極上に肥大化したこいつの身は、タラバガニを遥かに凌駕する旨味が詰まってやがるぜ。……よし、次はカエルだ」
ドレイクは、鉄板の上に分厚い魔獣脂を引き、たっぷりのバターを落とした。
ジュワァァァァンッ!!
熱された鉄板の上でバターが黄金色に泡立ち、そこへスライスしたニンニク、ハーブ、そして仙気で浄化された大王蝦蟇の太もも肉が一気につぎ込まれる。
激しい爆ぜる音と共に、焦がしバターとニンニクの暴力的なまでに食欲をそそる香りが暗渠を満たした。
蝦蟇の肉は、金の気を通した刃で完全に毒腺を切り離されており、さらに大地の恵みであるバターで炒めることで、強酸の火の気が完全に中和され、極上肉へと昇華されていく。
(……う、嘘。なによこれ……、あり得ないわ。見るからにおぞましいモンスターを炒めているだけなのに、どうしてこんなに頭がおかしくなりそうな良い匂いがするの……!?)
氷室は、自身の双剣を握る手が、別の意味で震え始めるのを感じていた。
すでに彼女の胃袋は、既に『生姜焼き』と『青椒肉絲』によって、ドレイクの料理の味を「絶対の正解」として完全に記憶してしまっている。
理性が「食べるな」と必死に拒絶を叫んでも、本能は、この香りがもたらすであろう至高の美味を求めて、すでに降伏の白旗を振っていた。
「さあ、熱いうちに食え! 女王と大王のよろず屋フルコースだ!」
ドレイクが、焼き上がった女王蜘蛛の脚の殻にナイフを入れ、パカッと殻を割った。
中から現れたのは、ふっくらと湯気を立てる、純白で極太の引き締まった身だった。
それを、ガーリックバターがたっぷりと絡みついた大王蝦蟇のソテーと共に、氷室のプレートへと豪快に盛り付ける。
「ほら、怜華。冷めないうちに食べてみて。これが、よろず屋の本当の『理』よ」
彩斗美に促され、氷室は涙目でフォークを握りしめ、覚悟を決めてカニ(蜘蛛)の肉厚な身を口へと運んだ。
サクッ、ジュワッ。
「――ッ!?!?!?!?」
氷室の背筋に、これまでにない強烈な衝撃が走った。
「あ、甘い……っ! カニよりもずっと味が濃厚で、ジューシーで、お口の中でとろけていく……! なにこれ、信じられないほど美味しい……っ!」
あまりの美味さに脳が揺れ、言葉を失う氷室。
続けざまに、蝦蟇のガーリックバターソテーを口に放り込む。
「こ、こっちのカエルも……鶏肉なんて目じゃないくらい、プリプリとした引き締まった弾力があって、バターのコクとガーリックのパンチが合わさって、いくらでも食べられちゃう……!」
氷室は涙を流しながら、エリートとしての最後の防壁を自ら粉砕し、一心不乱に貪り食い始めた。
「……悔しい、悔しいのに、フォークが止まらない……。ドレイクさん、あの、お、おかわりを……!」
おかわり用のトレイを差し出す氷室の顔には、もはやエリートの強張りはなく、よろず屋の理に完全に心酔した可愛いポンコツ感だけが残されていた。




