第172話 下層分断エリアの罠と、妖魅タッグ(前編)
ピチョン、という冷たい水滴の落ちる音が、湿った静寂の中に不気味に反響し、どこまでも暗く冷たい空間の奥へと吸い込まれていった。
東京都庁の真下に広がる、日本最大の魔境である『新宿ダンジョン』の下層。
異世界アストライアからの強引な質量転送による魔素のオーバーフローは、ダンジョンのシステムそのものに致命的なバグを引き起こし、本来ならば絶対に繋がるはずのない空間同士を無理やり癒着させていた。
機甲虎人との死闘を制し、不夜城エリアからさらに奥の階層へと足を踏み入れたよろず屋パーティーと氷室怜華を待っていたのは、近代的な地下暗渠の無機質なコンクリート壁と、時代劇のセットのような寂れた神社や遊郭の木柱が、悪夢のパッチワークのように無秩序に混ざり合った狂気の空間だった。
鼻を突くのは、下水特有の湿ったカビの匂いと、古い線香の燃えかすのような独特の臭気が混ざり合った、酷く陰湿な空気。
この歪な『妖魅エリア』とでも呼ぶべき空間は、新宿という土地に刻まれた何百年もの古い記憶と、異世界アストライアの魔素がバグを起こして強引に具現化・受肉した、混沌そのものの領域だった。
「……空間の位相が、いくつも重なり合って完全にイカれちまってやがるな。前の階層のネオン街といい、ここの古い時代の面影といい、全く悪趣味な肝試しだぜ」
最後尾を歩くドレイクが忌々しげに舌打ちをし、自身の分厚い指先をパチンと鳴らして小さな火花を散らすと、安タバコに手を加えた特製タバコに火をつけた。
『師父、煙草の本数が増えておりますが、魔素の吸収コントロールに不安でも?』
ドレイクのジャージのポケットから、黄龍の宝珠が微かに明滅して念話を響かせる。
神話の火龍である彼は、ダンジョン内での自身の圧倒的な出力を制御するため、タバコの紫煙をフィルター代わりに、地球とダンジョンという不慣れな環境下での魔素の取り込みをコントロールしているのだ。
「不安ってほどじゃねえがな。あっちとこっちの魔素がぐちゃぐちゃに混ざっちまっているからな……。混ぜもんだらけの出来の悪ぃ密造酒でも飲んでる気分だぜ」
ドレイクは深く紫煙を吸い込み、ふぅ、と細く吐き出した。
そんな余裕のドレイクに対し、S級ギルド『機巧の番犬』のサブリーダーである氷室怜華は、極度の緊張で顔を青ざめさせながら、両腰の魔導双剣の柄を固く握りしめて周囲を見回した。
「新宿ダンジョンには、数年間アタックしていますが……こんな階層、今まで一度も見たことがありません。マッピングデータにも、こんな和風の木造建築と暗渠が混ざったエリアの記録など一切存在しないはずです……」
彼女の腕に装着されている最新鋭の戦術タブレットは、未だに真っ赤なエラーコードを吐き出し続けている。
「なにが起こっているのかわからない、というのが正直なところね……」
漆黒のコートを優雅に羽織った佐修院彩斗美が、柳眉をひそめて周囲の障子の隙間から漏れる青紫色の妖しい発光苔を見つめた。
「でも、推測はできるわ。この異常な空間は、ただの未踏破領域じゃない。……今回の溢れ出しにおける強烈な魔素異常や位相崩壊が、新宿という土地に刻まれた『記憶』や『象徴的な概念』を読み取って、新しく受肉・形成させた階層なんじやないかしら」
『彩斗美殿の推測通りかと。魔素とは情報体の塊でもあります。それが地下深くから溢れ出す過程で、土地の地層が持つ情報や記憶と混ざり合い癒着して、顕在化した結果がこの様相ということなのでしょう。現象が定着する前の混沌といった風情ですな』
ふゆのスマートフォンから黄龍の風雅な合成音声が、彩斗美の推測を補強した。
システムがダウンしたこの絶望的な状況で、未知の法則で生み出された得体の知れない領域。
本来ならばパニックに陥ってもおかしくない状況だが、氷室の肉体は奇妙なほどに軽く、そして鋭く脈打っていた。
(……システムのアシストがないのに、身体が信じられないほど軽く動く。呼吸も深く通って、魔力の循環も全盛期みたいにスムーズだわ。これが、あの虎肉の効果だというの……!?)
驚愕しながらも、氷室は自らの内に宿る『過剰適応の逆バフ』による万能感を噛み締めていた。
よろず屋の同位同食によって最適化された彼女の肉体は、システムのサポートがなくとも、自らの身体操作だけで十分に最前線で戦えるスペックへと底上げされていたのだ。
「ダンジョンがどんな舞台を作ろうが関係ありません! わたしたちの目的は最下層にありますから!!」
先頭を歩く特級探索者の少女、前山田結羽は、両手足に装着された十数トンの超重力を放つ『縛仙環』の重みを感じさせない身軽さで、勢い込んで先行しようとした。
「結羽さん、焦らないで。先ほど左右分担で進むと決めたばかりでしょう。一歩ずつ、確実にクリアリングしながら進みましょう」
氷室が静かに双剣を構え、先走ろうとした結羽の肩を軽く制した、まさにその瞬間だった。
ピキッ……!!
氷室の着ていた最新鋭の防弾・防魔コーティングが施された防護服の肩口が、まるで見えない刃物で撫でられたかのように浅く裂け、微かに赤い血が滲んだ。
「えっ……?」
氷室が驚愕に目を見開いた瞬間、ドレイクの肩に座っていたふゆが、UIゴーグルを跳ね上げて切羽詰まった悲鳴を上げた。
「氷室さん、みんな、止まって!! 動いちゃダメ!!」
「ふゆ!?」
結羽がピタリと足を止める。
ふゆは、黄龍の演算とリンクさせた『魔力視』の瞳を極限まで見開き、空間全体をスキャンしながら青ざめた顔で叫んだ。
「この空間、目に見えないくらい細くて鋭い『魔力のワイヤー』が、レーザーセンサーみたいに隙間なく張り巡らされてる! 少しでも触れたら、防具ごと身体がスライスされちゃうよ!」
「不可視のワイヤートラップ……!? こんな広範囲に、一切の魔力残滓を感知させずに展開するなんて……!」
彩斗美が驚きに息を呑む。
トラップに気づかず不用意に動けば、文字通り細切れの肉塊に変えられる。
シャアァァァァァァッ!!
一行が足を止めたその瞬間を待っていたかのように、天井の崩れかけた廃神社の木柱の影から、不気味な狂笑と共に巨大な影が這い出してきた。
身の丈は四メートル。
巨大な土蜘蛛の胴体を持ち、その頭部には人間の女性の顔を模したおぞましい模様が浮かび上がっている深淵の魔獣――『女王蜘蛛』だ。
さらに、女王蜘蛛の出現と完全に連動するように、暗渠の淀んだ水面が爆発的に弾けた。
ゲロゲロゲロゲロォォォッ!!!
水しぶきの中から姿を現したのは、軽自動車ほどもある醜悪で巨大なカエルの魔獣。
全身に毒々しい紫色のイボを持ち、強酸の粘液をポタポタと垂らしながら、喉の奥を不気味に膨らませている――『大王蝦蟇』である。
『おや、女王蜘蛛に大王蝦蟇ですか。夫婦でお出迎えとは、大変なありがた迷惑ですな』
ドレイクのポケットから浮かび上がった黄龍の宝珠が、淡い光を放ちながら念話を響かせる。
「どちらも強力な毒と酸の持ち主です……! 同一階層にこの二体が同時に現れるなんて、これまでは絶対にあり得なかったのに……! 最悪なタッグですね……」
氷室が、冷や汗を流しながらも、瞬時に敵の危険度を分析して双剣を握り直した。




