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第17話 無自覚な規格外と、中層の亡霊

 翌朝。


 千葉県野田市郊外、朝靄が薄っすらとかかる一級河川の静かな河川敷。


 東の空がようやく白み始めたばかりの肌寒い空気の中、鋭い風切り音と、鈍い破裂音が連続して響き渡っていた。


 アームドベアとの激闘を終え、十分な休息と特製ちゃんこ鍋でエネルギーを限界まで補充した結羽は、ドレイクの指示により夜明け前から実戦形式のスパーリングを行っていたのだ。


「はぁぁぁッ!!」


 結羽の鋭い踏み込みが、河川敷の固く締まった土をまるで爆弾が弾けたかのように抉り飛ばす。


 右手に握られた漆黒の『古代樫の棍』が、空気を極限まで圧縮してパンッ! という破裂音を生み出しながら、ドレイクの頭上へと真っ直ぐに振り下ろされる。


 だが。


 その必殺の一撃を前にして、ドレイクは片手をジャージのポケットに突っ込んだまま、退屈そうに小さな欠伸を一つ噛み殺した。


「動きが直線的すぎる。威力を乗せることに気を取られて、次の一手の溜めがおろそかになってるぞ」


 ドレイクは、首をわずかに傾けるという最小限の動きで、結羽の全力の唐竹割りを完璧に躱してみせた。


 結羽は空振りした遠心力を即座に円の動きへと変換し、低い姿勢から足元を刈り取るような横薙ぎへと連携させる。


 しかし、ドレイクは空いた右手の指二本だけをすっと伸ばし、迫り来る黒光りする棍の側面を軽く弾いた。


 ガキンッ!!


 たったそれだけの動作で棍の軌道が完全に逸らされ、体勢を崩した結羽の額に、ドレイクの大きなデコピンが容赦なくめり込む。


「あいたっ!」


 結羽は後方へ数メートルほど吹き飛ばされ、河川敷の芝生の上をゴロゴロと転がった。


「おやっさん、強すぎます……。わたし、全然だめだ。いくらやっても、かすりもしない。こんなんじゃ、あの深層の牛っころには到底勝てない……」


 結羽は、自分の不甲斐なさに本気で落ち込んでいた。


 世界を滅ぼしかねない火龍の王を比較基準にしてしまっているため、結羽は「自分はまだまだ弱い、ハズレ枠のままだ」と完全に錯覚し続けているのである。


『……師父。結羽殿の自己評価の基準が、完全に崩壊していますね』


 河川敷のベンチに置かれた黄龍の宝珠が、呆れたような念話をドレイクに飛ばす。


 ドレイクはニヤリと獰猛に笑って念話で答えた。


『構わねえさ。中途半端に強くなったと勘違いして慢心するより、上には上がいると痛感し続けてる方が、どこまでも伸びる』


「どうした、もうバテたか? あの牛っころの角をへし折るって豪語した意地はそんなもんか」


「……っ! まだまだ、やれますッ!」


 結羽は両手で顔をパンッと叩いて気合を入れ直し、泥だらけの顔を上げて再び規格外の師匠へと向かって飛び込んでいった。



◆◆◆



 その日の午後。


 結羽とドレイクは、野田ダンジョンへと潜り、第五階層の中層エリアへと足を踏み入れていた。


 結羽は黒光りする古代樫の棍を片手に提げ、足音を消す理の歩法で滑るように進んでいく。


 複雑に入り組んだ岩場の通路を曲がろうとした時、結羽の鼻腔を、ふと、濃密で生々しい血の匂いが突いた。


「キャアアアアッ!」


 絶望に染まった悲鳴が、通路の奥から響き渡る。


 結羽が咄嗟に岩陰に身を隠して気配を探ると、そこには、血と泥にまみれ、完全に陣形を崩された中堅探索者パーティーの姿があった。


 そして、その顔ぶれには見覚えがあった。


「クソッ! なんでこんな中層の浅いところに、ワーウルフの群れが湧いて出やがるんだ!」


 大手民間ギルド『青銀の翼』のエンブレムが入った防具を身につけたリーダー格の男が、血走った目で悪態をついていた。


 彼らこそ、かつて第六階層でモンスターパレードに巻き込まれた際、荷物持ちだった結羽を囮にして見捨て、自分たちだけ逃げ延びた元パーティーの面々だった。


「リーダー! もうとっくに魔力も底をついています! 前衛の盾も限界で……ッ!」


 彼らを完全に包囲しているのは、五匹の『ワーウルフ』だった。


 リーダーの男は、迫り来るワーウルフの殺気を前に、完全にパニックに陥っていた。


 そして、最も醜く、冷酷な決断を下した。


「うるせえ! 俺に構うな、お前らが囮になって時間を稼げ! 俺が応援を呼んで戻ってくるからな!」


 男は、かつて結羽を見捨てた時と全く同じように、怪我をした仲間を見捨てて、自分だけ生き残ろうと後退りし始めたのだ。


 最も大柄なワーウルフが、鋭い爪を振り上げて後衛の魔術師の喉笛めがけて跳躍した。


「……どうする、結羽」


 隠形を展開したドレイクが、岩陰に潜む結羽の傍らで静かに問いかけた。


 結羽は小さく深呼吸をして、古代樫の棍を強く握り直した。


「……見殺しにしたら、わたしはあの人たちと同じになっちゃうから。それに――今のわたしには、あんな犬ころ、ただの通過点です」


 結羽は、岩陰から静かに歩み出た。


 そして、ワーウルフの跳躍の軌道へと滑り込むように肉薄し、遠心力を乗せた棍で魔獣の顎のジョイントをあっさりと粉砕した。


 残る四匹が殺到してくるが、結羽は無表情のまま、円の動きで死角へ回り込み、関節の理を突いて次々とワーウルフを打ち砕いていく。


 魔法の詠唱も、派手なスキルの光もない。ただの物理的な打撃のみで、わずか数十秒の間に五匹のワーウルフが沈黙した。


「な、なんだ……?」


「お前、まさか……前山田、結羽……!?」


 腰を抜かしたリーダーの男が、信じられないものを見る目で結羽を見上げた。


「お前、レベル1だったはずじゃ……! なんだその異常な強さは! 隠していたのか!?」


「……ステータスなんて、関係ありません。ただの理です」


 結羽は淡々と告げ、彼らに背を向けた。


 彼女の心には、過去の恨みを晴らす復讐の快感すらなかった。これ以上、この人たちと関わる理由も意味もなかった。


「待て! 結羽! 今のお前ほどの力があるなら、もう一度うちのギルドに戻ってこい! お前がいれば、俺たちは絶対にトップギルドになれる!」


 男が浅ましい声ですがりつくが、結羽は振り返ることなく一言だけ言い捨てた。


「お断りします。……わたしには、最高のお師匠様がいますから」


 その言葉の直後だった。


 結羽の背後の空間が、微かに、しかし決定的に歪んだ。


『……俺の弟子に気安く声をかけるんじゃねえぞ、三流どもが』


 男たちの脳内に直接響いた、魂を鷲掴みにされるような絶対的なプレッシャー。


 ズンッ……!!


「ひっ……!?」


 空気の質量が物理的に跳ね上がり、リーダーたちは悲鳴を上げることもできず、泥だらけの石畳へと無様に這いつくばった。


 結羽の背中が、薄暗い迷宮の奥へとゆっくりと消えていく。


 ステータスという補助輪を捨てた少女は、もはや彼らの手の届かない高みへと、その足をしっかりと踏み出していた。

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