第16話 実戦修行・後編(衝撃吸収と剛の理)
野田ダンジョンの石造りの迷宮は、下層へと進むにつれてその様相を微かに、しかし確実に変えていた。
壁面を覆う苔は黒ずみ、足元の石畳には湿った土がこびりついている。
結羽は、泥と汗で汚れきった顔を拭うこともせず、荒い息を吐きながら前方の暗闇を睨みつけていた。
『結羽殿、前方より接近する巨大な質量反応。データベースと照合……中層の暴走戦車と恐れられる『ビッグボア』ですな』
黄龍の冷静な念話が響く中、暗い通路の奥から軽トラックほどもある巨大な猪の魔獣が姿を現した。
純粋な『質量』と『突進力』に特化した、中層における脅威の一つである。
「いいか、結羽! 次は重戦車のお出ましだ!」
ドレイクの容赦のない檄が飛ぶ。
「まともにぶつかれば、お前さんの細い骨なんか一瞬で粉々になる! 突進の威力を、自ら転がる『受け身』で泥沼のように地面に逃がせ!」
「はいッ!」
結羽は黒光りする古代樫の棍を短く持ち、重心を深く落とした。
「ブモォォォォッ!!」
ビッグボアが耳を劈くような咆哮を上げ、四つの蹄で石畳を蹴り砕きながら、弾丸のような速度で突進してきた。
激突の刹那、結羽は棍を縦に構え、迫り来る巨大な牙の側面へと滑り込ませた。
そして、真正面から腕力で抗うのではなく、自ら後方へと跳躍し、背中から地面を転がった。
ズザァァァァッ!
凄まじい衝撃が結羽の身体を突き抜ける。
だが、ドレイクの『ちゃんこ鍋』によって最適化された筋繊維と柔軟なバネが、その運動エネルギーを見事に殺しきった。
ビッグボアは獲物を仕留め損ない、勢い余って石壁へと激突する。
(……今ッ!)
結羽は受け身の回転の勢いをそのまま利用して瞬時に跳ね起き、無防備になったビッグボアの後頭部めがけて踏み込んだ。
丹田から引き上げた内功の熱を一気に棍の先端へと流し込む。
「はぁぁぁぁッ!!」
全体重を乗せた、全力の唐竹割り。
棍の先端が、ビッグボアの硬い外殻のわずかな隙間、頸椎のジョイント部分へと正確に叩き込まれた。
ゴキャァァァッ!!
骨と甲殻が砕け散る生々しい破砕音が響き、ビッグボアの巨体がビクンと大きく跳ねた後、ゆっくりと横倒しになって沈黙した。
「よしよし、上出来だ。受け身の形も綺麗になってきたじゃねえか。さあ、今日はこいつの肉を使った、特製牡丹ちゃんこ鍋だ」
◆◆◆
さらに翌日。
地獄の周回ツアーも、いよいよ最終段階に入っていた。
第五階層の最深部、苔むした巨大な岩石が立ち並ぶエリアで、結羽の前に立ちはだかったのは、中層においても上位の力を持つ最強クラスの魔獣だった。
「グォォォォォッ!!」
岩の影から二メートルを優に超える巨体が立ち上がり、大気を震わせるような威嚇の咆哮を上げた。
全身を鋼鉄のように硬く分厚い毛皮に覆われた熊型の魔獣――『アームドベア』である。
結羽は隙を突いて棍を鋭く振り抜いたが、ガキンッ! という鈍い音と共に棍は分厚い毛皮に弾かれ、手のひらに強烈な痺れが走った。
「いいか結羽! 表面がカチカチの相手に、真正面から打撃で張り合おうとするな!」
ドレイクの厳しい声が飛ぶ。
「打撃が通らねえなら、思い切って懐に飛び込め! 相手の重さと勢いをコントロールして、地面に叩きつけろ! グラップリングの泥沼に引きずり込むんだ!」
(懐に、飛び込む……!)
結羽は恐怖を奥歯で噛み殺し、両手で固く握りしめていた古代樫の棍を、その場に手放した。
打撃を捨て、完全な無手での接近戦への移行。
「ガァァァァァッ!!」
アームドベアが怒り狂い、その太い右腕を真上から丸太のように振り下ろしてきた。
まさにその刹那。
結羽は極限まで低い姿勢を取り、一気に地を蹴って巨熊の懐へと滑り込んだ。
振り下ろされた豪腕の軌道を間一髪で掻い潜る。
アームドベアの太い腰回りでは、しっかりとクラッチを組めない。
狙いを瞬時に巨熊の足へと切り換えてクラッチする。
相手が腕を振り下ろした強烈な勢いと、その巨体がわずかに前傾した瞬間の『重心のブレ』。
結羽は丹田から引き上げた仙気で全身の筋肉を限界まで強化し、自らの身体をテコの支点にした。
クラッチを引く力を上へと逃がしながら、後方へと美しいブリッジを描くように反り投げる。
完璧なタイミングで放たれるプロレス技の極致――『櫓投げ』。
アームドベアの数百キロの質量が、後頭部と背中から硬い岩の地面に直接叩きつけられた。
ドゴォォォォォンッ!!!
無防備な脳髄を直接揺らされ、頸椎に致命的なダメージを負ったアームドベアは、白目を剥いて完全に沈黙した。
「ハァッ……ハァッ……。や、やりました、おやっさん……!」
「カッカッカ! 見事な判断だったぜ結羽。あれならどんな硬い相手だろうが、一発KOだ」
ドレイクが満足げに歩み寄ってくる。
だが、彼の笑顔はすぐに、わずかな怪訝さに変わった。
アームドベアの巨体が、光の粒子となって迷宮の空気に溶け込んでいく。
後に残されたのは、鈍い光を放つ大きな魔石が一つだけ。
「チッ、今回は肉はなしか。……ハズレありってのはなんともいただけねえぜ」
極上の熊肉を期待していたドレイクが忌々しげに舌打ちをする。
そんな師匠を尻目に、結羽はさっさと歩み寄り、残された魔石を麻袋へとポイッと放り込んだ。
「はいっ、回収完了! 稼げる時に稼いでおかないと、いつ何があるかわかりませんからね!」
「たく……お前さん、本当にたくましくなったな」
ドレイクはやれやれとため息をつきながら、泥だらけの笑顔を見せる弟子の背中を追いかけた。




