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第168話 不夜城の機甲虎人と、関節破砕の理(前編)

 極上の『暗渠鼠の厚切り生姜焼き』を腹の底に収め、完全に気力と体力を回復させた氷室怜華は、冷たい地下暗渠を歩きながら、自身の身体に起きている劇的な変化に内心で戦慄していた。


 エリート探索者として、システムで管理された無菌の高価なポーションや、徹底的な品質管理をされた最新の栄養食を幾度となく摂取してきた彼女だ。


 だが、今の身体の奥底からマグマのように湧き上がる、万能感すら覚えるほどの圧倒的な活力は、それらの比ではない。


 ドレイクの仙術によって完全に毒と臭みを浄化された獣肉の旨味と共に、純粋な生命力(エナジー)が細胞の隅々にまで浸透し、激戦の疲労を完全に焼き尽くしていたのだ。


 さらに、山盛りのキャベツと生姜の爽やかな香りが、荒れていた胃腸の働きを優しく整え、血流を爆発的に促進している。


(……信じられない。ただ魔獣の肉を食べただけで、これほど魔力回路が拡張され、筋力が底上げされるなんて)


 氷室は自身の両手を強く握りしめた。


 新宿ダンジョンの溢れ出しに伴う魔素の異常環境下、急激な適応(レベルアップ)が起きているはずだというのに、本来起こるべき『レベルアップ酔い』のひどい疲労感や眩暈は一切ない。


 よろず屋流の同位同食の恩恵を胃袋から受けたことで、肉体は不適合を起こすことなく最適化され、むしろ内側から熱を帯びて脈打つ『過剰適応の逆バフ』とも呼ぶべき規格外の力を実感していた。


 これまでの彼女の常識であれば、魔素濃度の異常な深淵領域で未知の魔獣の肉を食らうなど、自殺行為に等しかった。


 しかし、システムに依存し、それがダウンした瞬間にすべてを失ったと絶望していた自分が、今はひどく滑稽に思えた。


 前を羽のように軽い足取りで歩く結羽の小さな背中を見つめながら、氷室は彼女の規格外の強さの理由――『同位同食』という名の、理不尽なまでの生存戦略を、自らの血肉をもって理解し始めていた。



◆◆◆



 巨大な地下暗渠をさらに深く、迷路のような構造を潜っていくと、周囲の景色が唐突に、そして異様な形で変貌を遂げた。


 ドレイクの言った通り、ふゆの『魔力視』と黄龍のナビゲートは、複雑怪奇に歪んだ未踏破領域にあっても、決して迷うことのない絶対のコンパスとして機能していた。


「お姉ちゃん、この先の階段を下りたら、一気に魔素の波長が変わるよ。……なんだか、すごく人工的な感じ」


 ドレイクの肩に座るふゆがUIゴーグルを押し上げながら、警戒を促すように言う。


「人工的? 遺跡みたいな感じかな?」


 結羽が背中の如意黒閃を握り直しながら尋ねると、ふゆは首を傾げた。


「ううん、違うの。もっと……チカチカしてるっていうか、うるさい感じの魔力……」


 ふゆの言葉の意味は、螺旋階段を下りきり、重厚な防爆扉のようなゲートを押し開けた瞬間に理解できた。


「……何よ、ここ……」


 氷室が、信じられないものを見る目で呟く。


 ゲートの向こうに広がっていたのは、自然の洞窟でも、古代の遺跡でもなかった。


 それは、現実の新宿の象徴の一つである『歓楽街(ネオン街)』が、ダンジョンの濃密な魔素と悪夢の中でグロテスクに歪み、再構築された狂気の街並みだったのだ。


 ひび割れたアスファルトの道。


 その両脇には、どす黒いコンクリートで無造作に形成された廃ビルのような建造物が立ち並んでいる。


 そして、その建物の壁面には、文字の体を成していない光華文字のような、あるいはバーコードの羅列のような不気味なネオンサインが、赤や紫の毒々しい光を放ちながら明滅していた。


 チカ、チカチカッ……。


 電流がショートするような音が、不夜城の静寂を不規則に破っている。


「……新宿という土地の『概念』が、魔素とバグを起こして癒着した結果ね。厄介なこと極まりないわ」


 漆黒のコートを羽織った佐修院彩斗美が、周囲に16個の『阿羅漢』のキューブを展開させたまま、鋭いコマンダーの瞳で周囲を睥睨する。


「ダンジョンが発生した土地の記憶や象徴を、魔素が読み取って受肉する……理論としては知っていましたが、まさかここまで直接的に街が再現されるなんて……」


 結羽が周囲を警戒しながら、そんなつぶやきを落とした。


「マッピング済みの新宿ダンジョンの中層にも深層にも、こんな構造はありませんでした。ただの未踏破領域というよりは、溢れ出しの魔素異常の影響を受けた、新しい構造なのかもしれません」


 氷室が双剣の柄に手を添え、極度の緊張に息を呑む。


 エリート探索者である彼女の戦術タブレットは、この狂ったネオン街の強烈な電磁波と魔力ジャミングによって、相変わらず真っ赤なエラーコードを吐き出し続けていた。


「カッカッカ! 面白いじゃねえか。バケモンどもの夜の街ってわけだ。どんな極上の獲物が転がってるか、楽しみだぜ」


 ドレイクは、そんな不気味な光景など意に介することなく、分厚い指先でパチンと火花を鳴らしてタバコに火をつけた。


 深く吸い込み、紫煙をネオンの光の中へと細く吐き出す。


 彼の黄金の龍眼は、すでに『食材』の気配を鋭く捉えていた。


「おやっさん! あそこ!」


 結羽が、前方の廃ビルの隙間、ひときわ毒々しく瞬く赤いネオンサインの下を指差した。


 ズズンッ……ズズンッ……。


 重々しい足音が、アスファルトを揺らす。


 ネオンの光を反射して、縞模様の毛皮が怪しく明滅した。


 現れたのは、身の丈2.5メートルはあろうかという、筋骨隆々の虎の頭を持つ獣人――ワータイガーだった。


 だが、ただの生身の獣人ではない。


 その右腕と胸部の大半には、濁った銀色の魔法金属で打たれた重厚な装甲と、太いシリンダー管、そして黒い蒸気を噴き出す無骨な排気口が肉に直接埋め込まれていたのだ。


「■■■……■■■……――■■■」


 機甲虎人が、喉の奥から機械的なひしゃげたノイズを噴き出し、殺意をむき出しにして咆哮する。


 シュゥゥゥゥッ……!


 右腕と胸部の排気口から、高圧の蒸気が激しく噴き出した。


「特殊個体!? ボス部屋でもないのに!?」


 氷室が驚愕の声を上げる。


「下層からの溢れ出し(スタンピード)の影響ね。強大な魔素の干渉で、中層のこんなところにもイレギュラーが発生しているんだわ」


 彩斗美が即座に状況を分析し、警戒レベルを引き上げる。


「来ます! 私が前衛で止めます、皆さんはサポートを!」


 マッパーとして先行していた氷室が、先ほどの極上生姜焼きによる圧倒的なスタミナバフを脚力に乗せ、弾かれたように前へ出た。


 シャキンッ! という澄んだ金属音と共に、両腰の魔導双剣が抜き放たれる。


 ドンッ!!!


 機甲虎人の姿が、爆発的な踏み込みと共に掻き消えた。


 野生の獣の跳躍力と、機械のシリンダーによる強制的な推力が完璧に融合した、恐るべき初速。


 それは無駄なモーションの一切ない、極限まで洗練された中国武術を思わせる、強烈なインファイトの構えだった。


「速い……! 冷気、最大出力! 『接触点凍結』ッ!」


 氷室が超反応で双剣を交差させ、迫り来る虎人の拳を真正面から受け止める。


 激突の瞬間、双剣から放たれた絶対零度の冷気が、虎人の右腕の関節部を真っ白に凍りつかせようとした。


 トレンチラットの群れを沈黙させた、神経と駆動を遅延させる『相対超速ギミック』の絶対の理。


 だが。


「■■■――■■ッッ!!」


 凍りつきかけた機械関節のシリンダーが、限界突破の赤熱光を放ち、強烈な排熱によって氷室の冷気を強引に相殺した。


 機械による強制駆動のパワーは、デバフによる機能低下を上回る純粋な物理的出力を持っていた。

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