第164話 相対超速の双剣と、絶対防壁の指揮官(前編)
深く澱んだ空気が支配する、巨大な地下暗渠。
その暗闇の奥から、無数の赤い双眸がギラギラと飢えた光を放ちながら押し寄せてきた。
東京都庁の地下深く、新宿ダンジョンの最下層付近で発生している異常な魔力波長のオーバーフローと、それに伴う連鎖的氾濫。
そのすさまじい余波から逃れるようにして浅層へと押し出されてきた魔獣、『ジャイアント・トレンチラット』の巨大な群れである。
ドーベルマンほどもある巨体のネズミたちが、コンクリートを削るような不快な爪音を響かせ、悪臭を放つヘドロ混じりの汚水の川を蹴り立てて殺到してくる。
「……待って! ここは私が前衛を務めます! 皆さんは後続してサポートを!」
ドレイクの「頭だけを綺麗に潰してこい」という残酷な狩猟指示に呼応して飛び出そうとした結羽より早く、氷室怜華が弾かれたように前に出た。
実力未知数の少女や最前線に復帰したばかりのベテランより、まずは自身が前線に立つ。
それはS級ギルドのサブリーダーであるプライドでもあり、未知数の戦闘力に賭けることはしないという冷静な判断でもあった。
シャキンッ! という澄んだ金属音と共に、彼女の両腰から二振りの美しい魔導双剣が抜き放たれる。
(……システムが完全にダウンしていても、私の鍛え上げた剣技と魔法の制御までは奪わせない!)
氷室は深く息を吸い込み、迫り来る巨大なネズミの津波に向かって、電光石火の踏み込みを見せた。
彼女は関東トップのS級ギルド『機巧の番犬』のサブリーダーである。
最新鋭の魔導デバイスによる戦術サポートが最大の武器ではあるが、決してそれに甘えきっただけの凡庸な探索者ではない。
自らの肉体を極限まで鍛え上げ、魔法の理を骨の髄まで叩き込んでいるからこそ、S級という高みに到達できたのだ。
「起動……! 『氷雪の舞』ッ!!」
氷室が鋭く詠唱すると同時に、彼女の握る双剣の刀身から、周囲の水分を瞬時に凍らせるほどの極低温の冷気が立ち上った。
キィィィンッ! という甲高い音と共に、先頭を走っていたジャイアント・トレンチラットの巨大な爪と、氷室の双剣が激しく交錯する。
その瞬間、双剣から放たれた強烈な冷気が、接触点を通じて魔獣の肉体へと爆発的に浸透した。
「ギ、チ……ッ!?」
トレンチラットの動きが、不自然にカクンと鈍る。
それは単に肉体が凍りついた物理的な硬直ではない。
氷室の冷気は、魔獣の神経系そのものを局所的に凍結させ、脳からの電気信号を極限まで遅延させるという高度なデバフ効果を持っているのだ。
相手の生理的な時間感覚が凍りつき、反応速度が絶望的に低下する。
その結果、魔獣の視点から見れば、氷室の動きはまるで光の残像を残す『超速』へと相対的に引き上げられることになる。
「ハァァァァッ!!」
氷室の身体が、氷の粒子を撒き散らしながら、踊るように魔獣の群れの中を駆け抜ける。
斬撃が閃くたびに、トレンチラットたちの関節が凍りつき、動きを止められ、致命的な急所を次々と切り裂かれていく。
わずか数十秒の間に、十匹以上の巨大ネズミが血飛沫を上げることもなく、凍てついた彫像のように床へと崩れ落ちていった。
「……見事ね、怜華。相手の生理感覚を遅延させて、自分の速度を相対的に引き上げる。極めて理にかなった『感覚凍結』の技術よ」
後方でその戦いぶりを見守っていた佐修院彩斗美が、かつての日本のトップに立ったコマンダーとしての冷静な分析眼で、感嘆の声を漏らした。
だが、氷室の奮闘もそこまでだった。
バシャッ! バシャバシャッ!
倒しても倒しても、暗渠の奥からは次から次へと新しいトレンチラットの群れが、文字通りの黒い濁流となって押し寄せてくる。
最下層からのカスケード現象による魔獣の押し出しは、一人のエリート探索者が捌ききれるような生易しい物量ではないのだ。
「くっ……ハァッ……ハァッ……! 数が、多すぎる……!」
氷室の額から、滝のような汗が流れ落ちる。
魔導デバイスによる魔力供給のアシストや、スタミナ配分の最適化システムが沈黙している今、彼女の生身の肉体への負担は想像を絶するものがあった。
冷気を生成するための魔力が急速に枯渇し、足取りが目に見えて重くなる。
双剣を振るう速度が落ち、彼女の『相対超速』の魔法が解けかかった、その絶望の瞬間だった。
「ギシャァァァッ!!」
氷室の死角、真横の壁を蹴って跳躍した一匹のトレンチラットが、強酸の涎を垂らしながら、鋭い牙を剥いて彼女の首筋へと襲いかかった。
「しまっ――!」
回避が間に合わない。
疲労した筋肉が悲鳴を上げ、氷室の身体は硬直した。
彼女が絶望に目を閉じた、まさにその時。
「下がりなさい、怜華」
氷のように冷徹で、絶対的な威厳を持つ凛とした声が、暗渠の淀んだ空気を切り裂いた。
カァァァァァンッ!!
氷室のすぐ目の前に、青白い幾何学的な光の防壁が瞬時に構築された。
トレンチラットの数百キロという質量を持った突進が光の壁に激突し、凄まじい衝撃音と共に完全に弾き返される。




