第163話 遠足気分のよろず屋と、暗渠の巨大鼠
ピチョン、という冷たい水滴の落ちる音が、淀んだ静寂の中に不気味に響き渡った。
東京都庁の地下深く、新宿ダンジョンの中層で発生した、アストライアからの莫大な質量転送による位相の崩壊。
その空間の断裂に飲み込まれたS級ギルド『機巧の番犬』のサブリーダー・氷室怜華は、見知らぬ地下暗渠の冷たいコンクリートの床の上で、青ざめた顔で立ち尽くしていた。
通信不能、GPS機能のロスト、そしてローカルマップにも存在しない未踏破領域。
兵站を断たれ、完全な盲目状態に陥った氷室が、パニックと絶望に押し潰されそうになった、その時だった。
「カッカッカ! 見事なまでにぶった切られちまったな」
豪快で、全く緊張感のない笑い声が、不気味な暗渠に響き渡った。
氷室が弾かれたように振り向くと、そこには、自身の分厚い指先でパチンと火花を鳴らし、新しいタバコに火をつけているドレイクの姿があった。
彼は周囲の淀んだ魔素を紫煙のフィルターを通して肺いっぱいに吸い込み、満足げに細く吐き出している。
「こりゃあ、いい隔離空間だ。上からの邪魔も入らねえし、思い切り暴れられそうじゃねえか」
「な、何を言っているんですか!? 私たちは完全に分断されて、迷子になったんですよ!?」
「迷子? んなわけあるかよ。黄龍、ふゆ、現在地出してくれや」
「おっけー、おやっさん! えーと、浅層でサンプリングした魔素の波形と、現在地の魔素濃度から考えると、中層あたりかな?」
『左様ですな、ふゆ殿。共有させていただいた新宿ダンジョンのマッピング済み領域からは少し外れていますが、気にするほどではありません。進行していけば深層に繋がる前に本隊と合流できるでしょう。むしろ我々の方が先に着いてしまうかもしれません』
ふゆがUIゴーグルと魔力視を併せた分析を、タブレットを操作して答え、黄龍がスマホの分体から風雅な合成音声で補足説明する。
「カッカッカ! 都合のいいことにショートカットしちまったってわけだ。と、まぁそういうことだってよ。氷室の嬢ちゃん」
「えっ……それは安心材料ですが、やっぱり未踏破領域なんですね……って、そうじゃなくて! なんでこの魔素濃度でタブレットが使えるんですか?! 私の端末は圏外になっているのに……!」
「うーん? わたしのタブレットと黄龍先生のスマホは、オリジナルOSにしてあるからかな? ネットワーク接続のプロトコルも色々いじってあるし」
「そんな……どこの技術者によるものなんですか?」
『私とふゆ殿の合作です。まぁ、それ以上は企業秘密ということで、一つ』
「ついでに、本隊の方にも現在地座標とピンを打ったよー。このままパッシブにしておくね! あっちでちゃんと受信できればいいんだけど」
愕然とする氷室の横で、結羽がふゆを地面に下ろし、んーっ、と大きく伸びをした。
「う~ん、いきなり落ちてびっくりしたけど、怪我がなくてよかったです! 彩斗美先輩、結界ありがとうございました! あ、おやっさん。わたし、なんだか急にお腹が空いてきちゃいました!」
「結羽さん!? こんな状況で、何を言っているんですか!?」
氷室は、信じられないものを見る目で結羽を凝視した。
未踏破領域、しかも戦闘補助システムが完全にダウンしているというのに、この少女の顔には焦りどころか、緊張の色すら微塵も浮かんでいない。
「ふふっ。結羽さんの言う通りね。腹が減っては戦はできないわ。……氷室さん、落ち着いて。物資の心配なら、私たちがいるから大丈夫よ」
漆黒のコートを纏った佐修院彩斗美が、優雅に微笑みながら氷室の肩にそっと手を置く。
彼女の周囲では、16の魔導キューブ――『阿羅漢』が、主の魔力と意思に完全に同調し、青白い光を帯びて静かに旋回していた。
システムではなく、己の『理』で直接操るそのアーティファクトは、この魔素異常の空間でも全く機能不全を起こしていなかった。
「佐修院先輩……! で、でも、私たちは遊撃隊として先行していたため、大型の補給パックは後続に持たせていたはずです。皆さんの手持ちの回復ポーションや、保存の効くリカバリーブロックやゼリーはどれぐらいありますか? カロリーと魔力回復量の配分スケジュールを組み直さなければ……」
氷室がエリートとしてのセオリー通りに早口で問い詰めると、よろず屋パーティーの面々は一様にキョトンとした顔を見合わせた。
「ぽーしょん? りかばりーぶろっく……?」
結羽が不思議そうに小首を傾げる。
「回復の仙薬なら、わたしがいっぱい作ってきてありますよー!」
ふゆが胸を張り、腰に提げたミスリル製のシリンジケースをポンと叩く。
「……えっ。それは頼もしいですが……肝心の食料は? 彩斗美先輩はともかく、ドレイクさんも結羽さんも、皆さんその腰にあるのは……マジックバッグ持ちなんですか!? 中には一体どれほどのレーションが!?」
氷室が食い気味に尋ねると、ドレイクは呆れたように鼻を鳴らした。
「んなもん持ってねえよ。レーションだのゼリーだのブロックだの、味気ねぇエサみたいなもん食えるか。野菜と生薬と調味料はそこそこ持ち込んでいるがな。あとはフライパンと金網、愛用のナイフと包丁くらいだ」
「塩むすびなら10人前くらいあります!」
結羽がマジックバッグを探りながら、元気よく手を挙げる。
「あら嬉しい。結羽さんの塩むすび、美味しいのよね」
彩斗美がふふっと微笑む。
「水筒にお味噌汁もいれてきたよー!」
ふゆが小さな水筒を掲げる。
「万全です!」
結羽が親指を立て、ドレイクも「カッカッカ!」と豪快に笑い飛ばす。
「万全です!……じゃないですよ!! え、遠足じゃないんですよ!?」
氷室の常識的な、悲鳴にも似たツッコミが暗渠に空しく響き渡った。
「俺たち『よろず屋』の兵站は、基本的には現地調達だ。ダンジョンで狩った新鮮なバケモンを、その場で解体して、極上の飯に調理して喰らってるからな。腹が減ったら、そこらへんを歩いてる美味そうな奴を殴り倒す。それだけだ」
「なっ……!?」
ダンジョンの奥深く、いつ死ぬとも知れない極限の未踏破領域に閉じ込められているというのに、こいつらは『現地で狩って料理する』などという、狂ったことを当たり前のように言い放っているのだ。
「まぁ見とけ。これだけ魔素が濃けりゃあ、美味い肉を持った獣がウロウロしてやがるはずだ。……よし、とりあえずこの辺でベースキャンプを張って、まずは飯にするぞ!」
ドレイクがマジックバッグから、愛用の第三世代魔導コンロと分厚い鉄板を取り出そうとした、その時だった。
「ちょっと待ってください! こんなところで呑気に料理している場合じゃないですよ!? 早く本隊と合流するルートを探さないと、全滅のリスクだって……!」
氷室の悲痛な叫びを遮るように、ドレイクがスッと黄金の龍眼を細めて暗闇の奥を睨みつけた。
「おっと、お嬢ちゃん。お喋りはここまでだ。……結羽、『食材』のお出ましだぜ」
ドレイクの低い声と同時だった。
キチチチチッ……!! キィィィィンッ!!
鼓膜を引っ掻くような不快な鳴き声と、無数の硬い爪がコンクリートを削る音が、暗渠の奥から反響しながら近づいてきたのだ。
「なっ……!?」
氷室が息を呑み、双剣の柄に手をかける。
バシャッ、バシャバシャッ!!
悪臭を放つヘドロの川を蹴り立てて、暗闇の中から赤い双眸をギラギラと光らせた魔獣の群れが一斉に姿を現した。
それは、ドーベルマンほどもある巨大なネズミの変異種――『ジャイアント・トレンチラット』の群れだった。
通常の浅層に生じるラットとは桁違いの体躯。
その体表は下水の汚物にまみれ、強酸性の唾液をポタポタと垂らしながら、迷い込んだ獲物を食い殺そうと凶暴な殺気を放っている。
最下層で発生した異常な魔力波長のオーバーフローから逃れるようにして、上の階層へと連鎖的に押し出されてきた凶暴な獣たち。
その数は、ざっと数えただけでも数十匹を下らない。
通路の壁から天井に至るまで、黒い津波のように蠢いている。
「くッ……! あんな数、まともに相手をしたら……!」
氷室が顔を引き攣らせ、後ずさる。
システムによる演算アプローチや、ドローンでの索敵が使えない今、これほどの数の群れに四方を囲まれることは、エリート探索者である氷室にとっても明確に『死』を意識させた。
だが、よろず屋パーティーの面々に、悲壮感は微塵もなかった。
「おやっさん! あれ、お肉取れますか!?」
結羽が、背中の如意黒閃を抜き放ちながら、目をキラキラと輝かせて叫んだ。
恐怖の対象を前にして、彼女の口から出たのは生存戦略ではなく、純粋な食欲の確認だった。
「ああ。ただの下水ネズミなら臭くて食えたもんじゃねえが、ここの濃い魔素を限界まで吸って育った深層のネズミなら、極上の脂が乗ってるはずだ。……結羽、内臓を傷つけないように、頭だけを綺麗に潰してこい!」
「はいッ! 極上のお肉、仕入れてきます!!」
ドレイクの残酷なまでの狩猟指示に、結羽が満面の笑みで呼応する。
彼女の両手足に装着された総重量十数トンを超える『縛仙環』が、仙気と反発してチリチリと黄金の火花を散らし始めた。
システムに依存し、絶望するS級エリートを完全に置き去りにして、師弟の常識外れな会話が戦場を支配するのだった。




