第161話 深淵アタック開始と、位相崩壊の分断(前編)
東京都庁の真下にぽっかりと口を開ける、巨大で漆黒のゲート。
日本最大にして最悪の魔境、『新宿ダンジョン』への入り口を潜り抜けたアタック隊の面々を待っていたのは、自然の洞窟でも異世界の様式をもった迷宮でもなかった。
そこは、かつての新宿の複雑怪奇な地下鉄網や、広大な地下下水道の遺構が、ダンジョンの濃密な魔素によってグロテスクに侵食され、無秩序に再構築された『コンクリートのジャングル』であった。
剥き出しになった赤茶けた鉄筋が、まるで巨大な魔獣の肋骨のように壁面から突き出している。
ひび割れたアスファルトの床には、用途不明の太いケーブルや魔力パイプがとぐろを巻き、ひんやりとした冷気とカビの匂いが、侵入者の肺の奥へとねっとりと張り付いてくる。
上層から下層へと向かうにつれ、このダンジョンが単なる魔物の巣窟ではなく、都市という『概念』そのものを飲み込み、顕現した特異な空間であることが肌で感じられた。
「各員、警戒を怠るな! ここはすでに前線のど真ん中だ!」
関東のトップS級ギルド『白銀の軌跡』のギルドマスター・堂島誠の野太い号令が、コンクリートの地下空間に木霊した。
彼の背後には、神奈川のS級ギルド『機巧の番犬』のリーダー・葛城我門をはじめとする、数十人の日本最高峰のエリート探索者たちが、最新鋭の魔導具や防護服に身を包み、一糸乱れぬ陣形を組んで進軍している。
その本隊から数十メートルほど前方を歩き、マッパー兼遊撃のサポート役として先行しているのが、氷室怜華だった。
彼女は、両腰に佩いた愛用の魔導双剣の柄に手を添えたまま、極度の緊張で背筋を強張らせていた。
無理もない。
彼女の腕に装着された最新鋭の戦術タブレットは、先ほどから赤い警告光をチカチカと明滅させ、深層から立ち上ってくる異常な魔力波長にエラーを吐き出し続けているのだ。
システムによる索敵と演算を戦闘の要とする彼女たちエリートにとって、センサーの不調は文字通り『目隠し』をされて歩いているに等しい恐怖であった。
(……信じられない。この人たち、これから観測不能レベルの魔力波長が渦巻く深層の底へ潜るというのに、まるで近所のコンビニにでも行くような顔をしているわ……)
氷室は、チラリと背後を振り返り、内心で戦慄の息を呑んだ。
最後尾を悠然と歩く、ジャージ姿の規格外の巨漢、ドレイクと名乗った男。
彼は分厚い指先をパチンと鳴らして小さな火花を散らすと、口にくわえたタバコに火をつけ、紫煙を細く吐き出しながら、どこか退屈そうに首の骨をゴキリと鳴らしている。
その隣では、かつて日本の頂点に立った伝説のSSランク・コマンダーである佐修院彩斗美が、漆黒のコートを優雅に翻し、自らの周囲に16個の銀色の魔導キューブ――『阿羅漢』を静かに浮遊させていた。
システムのエラーなどどこ吹く風とばかりに、彼女の魔力と直結したキューブは、この異常空間にあっても青白い光を帯びて完璧な幾何学軌道を描いている。
そして先頭集団を歩くのは、自分より遥かに年下である十代の姉妹だ。
特級探索者の証であるライセンスカードを首から下げた前山田結羽は、両手首と両足首にドス黒い重力枷である『縛仙環(2セット目)』を装着している。
十数トンという殺人的な質量が彼女の四肢を縛っているはずなのに、結羽はまるで羽のように軽い足取りで、鼻歌すら交じりに歩いている。
その背中には、先端に分銅鎖が接続された、鈍い銀光を放つ『如意黒閃』が、恐ろしいほどの殺気を秘めて固定されていた。
結羽の隣では、特例Dランクの天才オペレーター・ふゆが、UIゴーグルをカシャカシャと操作しながら、周囲の壁やパイプを興味深そうに観察していた。
「ふゆ、周囲の魔力波長はどうなってる?」
結羽が、前方を警戒しながら妹に尋ねる。
「うんっ! 黄龍先生と一緒にスキャンしてるけど、下に行けば行くほど、魔素の濃度がドロドロに濃くなってるよ! なんだか、空気じゃなくてお水の中を歩いてるみたい」
『ふゆ殿の言う通りです。アストライア側からの強引な質量転送による影響で、空間の位相が完全に歪み始めています。……通常の現代機器や、システムに依存した魔法回路は、この先では正常に作動しない確率が極めて高いでしょう』
ふゆのスマートフォンから、黄龍の風雅で知的な念話が響く。
その警告を聞き、氷室はピクリと柳眉をひそめた。
「黄龍さん、と言いましたか。……脅かすのはやめてください。私のこの戦術タブレットと魔導双剣は、『機巧の番犬』の誇る最新鋭の軍事用魔導デバイスです。いかなる魔力ジャミング下であっても、自己補正機能が働くように設計されています」
氷室は、エリート探索者としての強烈なプライドを覗かせて言い返した。
彼女たちS級ギルドの強さは、徹底的にシステム化・数値化された最適解の戦闘論理に基づいている。
それを頭ごなしに否定されることは、彼女のこれまで積み上げてきた血の滲むような努力を否定されることと同義だった。
「カッカッカ! お嬢ちゃん、そうカリカリすんな。黄龍はただの『事実』を口にしただけだ」
ドレイクが、豪快に笑いながら携帯灰皿にタバコの灰をトントンと落とした。
「機械やシステムってのは、あらかじめ想定されたルールの内側でしか機能しねえ。だが、これから俺たちが向かうのは、ルールの外側――バグのど真ん中だからな」
「バグの、ど真ん中……」
「そうだ。……だから、システムが使い物にならなくなった時に、最後に頼りになるのは己の肉体と『理』だけだ。まぁ、危なくなったら俺の弟子が庇ってやるから、安心しな」
ドレイクが結羽の背中をポンと叩くと、結羽は「任せてください!」と満面の笑みで親指を立てた。
「わ、私を子供扱いしないでください! 私はS級ギルドのサブリーダーですよ!」
氷室が顔を真っ赤にして抗議した、その時だった。




