第150話 S級緊急召集と、保護者の裏工作(前編)
特級探索者でありながら、学園のペーパーテストという理不尽な活字地獄に完膚なきまでに敗北し、完全に幼児退行してしまった前山田結羽。
限界を迎えた彼女が放った「ひいおじいちゃん、きらい」という純粋な一撃は、数千年の時を生きる神話級の火龍の精神に特大のダメージを与えた。
その精神的ケアと、結羽のストレス発散を兼ねた「赤城山ダンジョン深淵の大掃除(息抜き)」へと出発する日の朝。
千葉県野田市にある前山田家のリビングには、コーヒーの香ばしい匂いと、穏やかな朝の空気が漂っていた。
「おはよう、結羽さん、ふゆちゃん、ドレイク殿」
リビングに姿を現したのは、最高級のシルクのパジャマに身を包み、眠たげに目をこすりながらマグカップを傾ける佐修院彩斗美だった。
「あ、おはようございます! 彩斗美先輩、昨夜は遅くまで教えてくださって、本当にありがとうございました!」
結羽がエプロン姿で朝食の準備をしながら、元気よく頭を下げる。
元SSランク探索者であり、佐修院家の当主でもある彼女が、ごく一般的な分譲マンションに泊まり込むなど、以前であれば考えられないことだった。
だが、留年の危機から『スキップ卒業認定試験』へと挑む結羽の過酷なスパルタ補習に付き合うため、彼女はここ数日、家庭教師としてヤサに愛用の高級寝具を持ち込み、文字通り泊まり込みで教鞭を振るってくれていたのだ。
一緒に食卓を囲み、一緒に夜更かしをして勉強を教える。
それは、彼女が「スポンサー」や「コマンダー」というビジネス上の肩書きを超えて、よろず屋パーティーという一つの『家族』に深く溶け込んでいる何よりの証拠でもあった。
「もー、おやっさんしつこいです! お勉強ばっかりで頭がパンクしそうだったから、つい八つ当たりしちゃっただけですってば!」
「本当に嫌いになったわけじゃねえんだな? じいちゃんのこと、嫌いじゃねえんだな?」
「嫌いじゃないです! むしろ大好きです! だからもう機嫌直してください!」
キッチンでフライパンを振りながら、結羽が呆れたように笑う。
背後のソファでは、ドレイクがまだ昨晩のショックを引きずったまま、しつこく確認を繰り返していた。
結羽の顔からは昨日までの暗雲が立ち込めるような絶望の表情は嘘のように消え去り、遠足の朝を迎えた子供のようにキラキラと輝いている。
傍らのテーブルには、綺麗に布で磨き上げられた彼女の新たな相棒――『如意黒閃』が、出番を待ちわびるように鈍い銀光を放って立てかけられていた。
「カッカッカ! ならいいんだ。……よし、朝飯食って、お前さん方の準備ができたなら、群馬に向けて出発するとするか」
ドレイクが安堵の息を吐き出して立ち上がった、まさにその時だった。
「前山田様、ドレイク殿、彩斗美お嬢様! 緊急事態でございます!」
バンッ! と勢いよくリビングの扉が開き、佐修院家の万能執事・黒田が血相を変えて飛び込んできた。
普段は一切の隙を見せない彼の燕尾服がわずかに乱れ、額には汗が滲んでいる。
「どうした、黒田。朝から随分と慌ててるじゃねえか」
ドレイクが片眉を上げると、黒田は息を整える間も惜しむように、手にしたタブレット端末をテーブルの上に広げた。
「関東ダンジョン協会本部より、S級ギルドおよび、我々『独立A級ギルド・よろず屋ドレイク』宛に、緊急の召集要請が下りました。……日本最大の魔境、『新宿ダンジョン』において、観測史上最大規模の魔力異常と、スタンピードの兆候が確認されたとのことです!」
「新宿ダンジョンで、スタンピード……!?」
結羽が息を呑み、手から布巾を落とした。
新宿ダンジョン。
日本の首都の地下深く、蜘蛛の巣のように広がる広大な迷宮群。
関東一円の魔力脈の結節点であり、未だ誰も最下層に到達したことがないという、日本最大にして最悪のブラックボックスである。
もしその規模のダンジョンから魔獣が地上へ溢れ出せば、日本の首都機能は完全に崩壊し、計り知れない数の犠牲者が出ることになる。
「協会は事態を重く見て、関東のS級以上の探索者を集めた『対策会議』と、事態鎮圧のための『深淵アタック隊』の緊急編成に動いています。我がよろず屋も、これまでの規格外の実績と、第一世代の英雄である彩斗美お嬢様の見識を買われ、特例で加勢を求められている状況です」
その報告を聞き、パジャマ姿でコーヒーを飲んでいた彩斗美の眼差しが、一瞬にしてトップギルドを率いた『コマンダー』のそれへと切り替わった。
「会議はいつから?」
「本日の午後、協会本部にて」
「わかったわ。すぐに着替える」
彩斗美が立ち上がると、結羽も慌てて如意黒閃を背負い直した。
「彩斗美先輩! わたしも行きます! よろず屋はAランクギルドなんですから、マスターのわたしが……!」
「ダメよ、結羽さん」
彩斗美は、スッと冷徹な、けれどどこまでも優しい声で結羽を制止した。
「貴女は昨夜までの活字地獄のせいで、精神的な疲労が限界に達しているわ。そんな状態で、新宿の最前線という極限のプレッシャーに晒されるべきではない。……それに、これは『対策会議』よ。大人の政治と権謀術数が渦巻く場に、まだ高校生の貴女が出る必要はないわ」
「でも……っ」
「ギルドとしての顔繋ぎと、情報収集は私と黒田で十分よ。……それに、せっかくの結羽さんの『息抜き』を潰すわけにはいかないわ。私たちが大人たちの相手をしている間に、貴女たちは予定通り、群馬で暴れてきなさい」
彩斗美はふふっと優雅に微笑み、結羽の頭をそっと撫でた。
その気高い気遣いに、結羽はギュッと唇を噛み締め、やがて力強く頷いた。
「……わかりました。彩斗美先輩、黒田さん、会議の方よろしくお願いします! わたしは群馬でしっかりお掃除して、ストレスを発散してきます!」
「ええ、頼んだわよ」
◆◆◆
「本日は私が協会へ同行するため、群馬への足は佐修院家の優秀な運転手を手配しております」
そう説明する黒田の後ろには、すでに、ピカピカに磨き上げられた漆黒の最高級SUVと、初老のベテラン運転手が待機していた。
かくして、地上での大人の立ち回りと、地下での息抜きという、よろず屋パーティーの二面作戦が開始された。




