第148話 終わらない活字地獄と、火龍へのクリティカルヒット(前編)
「……ううっ、微分と積分が、わたしの頭の中でモンスターパレードを起こしてるよぉ……」
千葉県野田市にある前山田家のリビング。
深夜のテーブルに山積みにされた参考書と問題集を前に、特級探索者・前山田結羽は、文字通り頭からプシューッと幻の煙を噴き出しながら突っ伏していた。
高校一年から三年までの全教科・全カリキュラム。
それが、『特例・スキップ卒業認定試験』をパスするために、彼女が超えなければならない絶対的な壁だった。
妹であるふゆと、インテリジェンス・アーティファクトである黄龍という「世界最高峰の頭脳」による徹夜の猛特訓の甲斐あって、結羽はなんとか留年を回避するための『追試』をクリアすることには成功した。
だが、問題はその先だった。
追試のヤマを張った一夜漬けとは次元が違う、果てしない学習量。
そして現在、リビングは元SSランク探索者にして最強のコマンダーである佐修院彩斗美の指揮下のもと、過酷極まりない『活字の戦場』と化していた。
「結羽さん、甘いわ! その古文の助動詞の活用、昨日も間違えたところよ! 魔獣の急所を二度も逃す探索者がどこにいるの!」
「ひぃぃっ! ご、ごめんなさい彩斗美先輩! えっと、『る・らる』の下に打消の言葉が続く時は……っ」
「遅い! 実戦なら今の三秒で致命傷よ! 次、世界史! 神聖ローマ帝国の成立年号と、その背景にある各国の勢力図を盤面に展開しなさい!」
彩斗美の容赦のないスパルタ指導が響き渡る。
かつて日本の頂点に立った中衛指揮官の的確なナビゲートは、結羽の「ダンジョン脳」に知識を強制的にインストールさせる上では極めて効果的だった。
しかし、両手首と両足首には『縛仙環(2セット目)』が常に10トン以上の超重力を放ち、彼女の肉体を押し潰そうと牙を剥いている。
机や椅子を破壊しないよう仙気で相殺し続けながらの座学は、もはや結羽の精神力をレッドゾーンへと追い込んでいた。
「はぁっ……はぁっ……。三十年戦争は、スタンピードの連鎖で……ウェストファリア条約が、不可侵条約のギルド間協定で……」
「カッカッカ! おいおい特級サマ、また計算ミスしてんぞ。バケモンの動きはコンマ一秒で見切るくせに、二次関数のグラフの動きはさっぱり見えねえと見えるな」
すぐ隣のソファでは、ドレイクがどっかりと寝転がり、冷えた缶ビールを煽りながらテレビのお笑い番組を見てゲラゲラと笑っていた。
「おやっさん……静かにしててくださいよぅ……。ただでさえ、頭の中が文字でいっぱいで、爆発しそうなんですから……っ」
「バケモン相手の方がマシだったって泣き言はまだか? 神話級の狐野郎をぶっ飛ばした腕っぷしで、その教科書ってやつも物理で粉砕してみせろよ」
ドレイクの意地悪なからかいが、限界状態にある結羽の心に真綿で首を絞めるように蓄積していく。
『師父、少々結羽殿の精神波形が危険域に達しつつあります。……これ以上の負荷は、脳の処理限界を引き起こす可能性がありますぞ』
黄龍の宝珠が静かに忠告する。
「なに、このくらいで折れるタマじゃねえよ。基礎体力がバグってんだ、脳みそのシワにも無理やり仙気を通せばなんとかなるだろ」
ドレイクはそう言って立ち上がると、キッチンへと向かい、手際よく夜食の準備を始めた。
「ほれ、夜食だ。脳みそが疲れた時は、上質なタンパク質とスパイスで強引にエンジンを回すに限る」
テーブルの真ん中に置かれたのは、山盛りにされた『さいたまダンジョン産・泥ワニの尻尾肉のスパイシー唐揚げ』だった。
「わぁっ! 唐揚げだ! おやっさん、ありがとう!」
ふゆが大喜びで手を伸ばし、サクッ、と良い音を立てて頬張る。
「ええ、本当に。泥沼に棲む魔獣の肉とは思えないほど、上品で深みのある味わいね」
彩斗美も夜食の誘惑に負けて優雅に口に運んでいる。
だが、普段であれば誰よりも早く箸を伸ばすはずの結羽は、ただ虚ろな瞳でノートを見つめたまま、機械的な動作で唐揚げを一つ口に放り込むだけだった。
「……美味しい。……美味しいはずなんだけど、文字が、ずっと頭の中を回ってて……味が、よくわからない……」
「お姉ちゃん……大丈夫? もうちょっとだから頑張ろう? ここの公式は、黄龍先生が作ってくれた『光華王朝式・暗記の歌』で歌えばすぐに覚えられるよ! そうしたらおやすみしよ!」
「ダメよ、ふゆちゃん。ここで休めば、せっかく繋ぎ合わせた記憶のシナプスがまた切れてしまうわ。結羽さん、次は英語の長文読解よ。アストライアの光華文字を解読するつもりで、構造をバラバラに解体しなさい!」
彩斗美が、容赦なく分厚い英語の参考書を結羽の目の前にバンッと広げた。
その瞬間だった。
結羽の限界まで張り詰めていた緊張の糸が、プツンッ、と微かな音を立てて切れた。
「……もう、無理」
カランッ、と結羽の手からシャーペンが滑り落ちる。
「……うわぁぁぁぁぁぁぁぁん!! もうやだぁぁぁーーッ!!」
深夜のリビングに、結羽の号泣が響き渡った。
彼女は椅子から立ち上がると、そのまま隣にいたふゆにガバッと抱きつき、子供のようにわんわんと泣きじゃくり始めた。
「文字が! 文字が全部うじゃうじゃ動いて、アリの行列や魔獣に見えるぅぅぅ! 倒しても倒しても、次のページから無限に湧いてくるよぉぉぉ! もう無理ぃぃぃ!」
極限のストレスによって完全に『幼児退行』を起こした特級探索者。
「よーしよし、お姉ちゃん、頑張ったね、偉いよぉ」
ふゆが優しく背中を撫でて慰める。
そのあまりの光景に、彩斗美も呆れたように小さくため息をついた。




