第147話 コマンダーの家庭教師と、物理の数式化(後編)
「つまり、この『v(速度)』と『t(時間)』のグラフは、ワーウルフの群れが突進してくる際の、加速と減速の推移を表しているんですね! そしてこの面積が、わたしが踏み込んで迎撃すべき距離……!」
「その通りよ! あなたが現場で身体に叩き込んできた『理』を、この数式という共通言語に落とし込むの。そうすれば、どんな初見の魔獣が出ても、応用で解体できるようになるわ!」
彩斗美のコマンダーとしての的確な指導は、結羽の「ダンジョン脳」に凄まじい勢いで直結していった。
歴史の授業では「過去の大規模スタンピードの発生原因と、当時のギルドの防衛戦術の失敗例」として分析させ、魔導生物学では「魔獣の骨格構造と弱点部位の生体力学的アプローチ」として解剖していく。
結羽のシャーペンが、再び凄まじい速度でノートの上を走り始める。
「解ける……! 彩斗美先輩の的確な指揮があれば、どんな難問でも解体できます!」
しかし。
コマンダーの指導がいくら的確であろうとも、三年分という膨大なカリキュラムの『情報量』そのものが減るわけではない。
数時間後。
結羽の脳内キャパシティは、完全に臨界点に達していた。
「はぁっ……はぁっ……。重力加速度は、縛仙環の負荷と同じ……。魔法陣の構成式は、魔導キューブの展開速度と比例して……徳川幕府の、えっと、大政奉還の年号は……ダンジョンの……」
結羽の瞳の焦点が定まらなくなり、口からはブツブツと数式と歴史の年号と魔獣の名前がごちゃ混ぜになって漏れ出ている。
座ったまま、縛仙環の10トン以上の重力をミリ単位で相殺し続けながら、同時に脳細胞をフル回転させるという極限のマルチタスク。
身体を動かす戦闘とは違う、純粋な『脳のオーバーヒート』が結羽の仙気を急激に削り取っていく。
「結羽さん、まだ休んではダメよ。次は魔力流体力学の応用問題よ。九頭竜の放った水流ブレスの圧力を相殺するためのベクトル計算、覚えているわね?」
「あうぅぅ……頭が、頭が破裂しそうですぅ……」
「カッカッカ! いいザマだな、結羽」
脳から煙を吹き出している弟子の姿を見て、キッチンからドレイクの豪快な笑い声が響いた。
「お前さんの武器は棍だが、頭の武器はスッカラカンだからな。身体を鍛えるのと同じように、脳みそにも負荷をかけて筋肉のシワを増やしてやらなきゃなんねえ」
「おやっさん……笑ってないで、助けてくださいよぉ……」
「助け舟は出してやってるだろ? ほれ、夜食だ。頭使って空っぽになった脳みそに、極上の養気を行き渡らせてやるよ」
ドレイクがダイニングテーブルにドカッと置いたのは、山盛りの巨大なカツサンドだった。
ただのカツサンドではない。
さいたまダンジョンで狩った『ジャイアント・ボア』の分厚いロース肉に、特製の粗挽きパン粉をまとわせ、高温の油でサクッと揚げた極上のトンカツ。
それを、ドレイク特製の果実の甘みが溶け込んだ濃厚なソースにたっぷりと潜らせ、軽くトーストした食パンでキャベツと共に力強く挟み込んでいる。
「わぁっ! カツサンドだ!」
ふゆが歓声を上げる。
「深夜にこんなにカロリーの高いものを……でも、この暴力的なまでに食欲をそそる香りは反則ね」
彩斗美も苦笑いしながら、上品にカツサンドを一つ手に取った。
「さあ、食え結羽。脳みそを動かすのは糖分だ。ジャイアント・ボアの生命力と、俺の仙気で練り上げた特製ソースが、切れたシナプスを強制的に繋ぎ合わせてくれるぜ」
結羽は震える手でカツサンドを掴み、大きく口を開けてかぶりついた。
サクッ! という小気味良い音と共に、分厚い豚肉から肉汁がジュワッと溢れ出す。
フルーティーで酸味の効いた濃厚なソースが、豚肉の強烈な旨味を完璧に引き立て、サクサクの衣とパンの香ばしさが三位一体となって口の中を暴力的に蹂躙する。
「んんんっ……!! 美味しいぃぃっ!」
結羽の瞳に、パァッと光が戻った。
枯渇しかけていた仙気と脳のエネルギーが、極上のダンジョン飯によって一瞬にして満たされ、オーバーヒートしていた頭脳に再びクリアな思考力が蘇ってくる。
「すごい……! お肉の脂が甘くて、ソースの酸味で全然重くないです! これならいくらでも食べられそう!」
「カッカッカ! いっぱい食え。レモンとマスタードもあるぞ。味変してどんどん食え。そんで食ったら、またすぐに机に向かえよ。明日の朝までに終わらせるノルマが、まだ半分残ってんだからな」
「えっ」
カツサンドを頬張っていた結羽の動きが、ピタリと止まった。
「さあ、休憩は十分ね。結羽さん、次は古典文学の読解よ。古の術士たちが遺した詠唱の法則性を解き明かすのよ!」
彩斗美が、悪魔のように――いや、鬼教官のように美しい笑顔で分厚い国語の教科書を開く。
美味しい。
極上に美味しいダンジョン飯だ。
だが、このエネルギーは、明日もダンジョンで魔獣と殴り合うためではなく、目の前にそびえ立つ『全カリキュラム』という活字の山を登るための強制的な燃料に過ぎない。
「ダンジョンでバケモンと殴り合う方が……よっぽど楽ですぅ……」
縛仙環の超重力と、コマンダーのスパルタ教育。
そして、おやっさんの極上飯による強制回復。
逃げ場の無い『よろず屋式・活字地獄』の夜は、特級探索者の悲鳴と共に、まだまだ果てしなく続いていくのだった。




