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第146話 コマンダーの家庭教師と、物理の数式化(前編)

 歓喜の絶頂から、漆黒の絶望の底へ。


 赤点回避を目的とした追試を見事に突破し、留年の危機を脱したとばかり思っていた前山田結羽。


 だが、彼女が本来目指していた『特例・スキップ卒業認定試験』の範囲は、高校一年生の一学期分などという生易しいものではなかった。


「高校三年間の、全教科・全カリキュラム……」


 千葉県野田市のマンション。


 前山田家のリビングのダイニングテーブルに突っ伏した結羽の口から、魂の抜けたような声が漏れる。


 彼女の両手首と両足首には、ドレイクの調整によって以前よりも遥かに出力が増大した『縛仙環(2セット目)』がガッチリと嵌められていた。


 常に10トン以上の超重力が彼女の肉体を押し潰そうと牙を剥いているが、今の結羽には、その物理的な負荷すらも意識の彼方へと消え去ってしまうほどの精神的ダメージがのしかかっていた。


「うぅぅ……無理です。絶対に無理です。一学期分のテスト範囲だけでも、あれだけ頭がパンクしそうだったのに……あと五学期分もあるなんて……」


 目の前に積み上げられた、分厚い教科書と参考書の山。


 それは、どんな神話級の魔獣よりも高く、そして冷酷に結羽を見下ろしていた。


「諦めちゃダメだよ、お姉ちゃん!」


 エプロン姿のふゆが、冷たい麦茶をテーブルに置きながら元気よく励ます。


「わたしと黄龍先生で、スキップ卒業試験の日までの完璧な学習スケジュールを作ったからね! 睡眠時間を一日3時間に削って、おやっさんのご飯で脳の疲労を極限まで回復させ続ければ、全範囲を網羅できる確率がゼロじゃないって黄龍先生も言ってるよ!」


『左様でございます。結羽殿の生存本能に直結した「ダンジョン脳」の暗記術と、仙気による脳細胞の強制活性化を併用すれば、試験日までに合格最低ラインの知識を詰め込める確率は、およそ3パーセント存在します』


 スマートフォンのスピーカーから響く黄龍の風雅な声は、冷静にして非情だった。


「3パーセントって、ほとんどゼロじゃないですかぁッ!」


 結羽が涙目で絶叫した、その時だった。


 ピンポーン。


 マンションのインターホンが、涼やかな音を立てて鳴った。


「おう、開いてるぜ。入ってきな」


 ソファで缶ビールを煽っていたドレイクが声をかけると、リビングのドアが静かに開き、見慣れた燕尾服姿の執事・黒田と、優雅なサマードレスに身を包んだ佐修院彩斗美が姿を現した。


「こんばんは、ドレイク殿、結羽さん、ふゆちゃん」


 彩斗美が、気高く美しい笑みを浮かべてリビングへと足を踏み入れる。


「彩斗美先輩! 黒田さん! どうしたんですか、こんな夜に……」


 結羽が重い身体を起こして尋ねると、彩斗美はテーブルの上に積み上げられた参考書の山を見て、フッと息を吐いた。


「黒田から報告を受けたわ。結羽さんが、学園のスキップ卒業認定試験を受けると聞いてね。……でも、どうやら相当苦戦しているようじゃない?」


「うっ……それは……」


 図星を突かれた結羽が言葉に詰まると、黒田が恭しく一礼して引き取った。


「現在、結羽様は『独立Aランクギルド・よろず屋ドレイク』のマスターというお立場にございます。そのギルドマスターが、学業不振で留年、あるいは卒業試験に落ちたという噂が広まれば、スポンサーである我が佐修院家の名折れにもなりかねません。……何より、お嬢様が結羽様を大層心配なされておりまして」


「黒田、余計なことは言わなくていいわ」


 彩斗美が扇子でピシャリと黒田を制し、結羽の向かいの席に優雅に腰を下ろした。


「特級探索者であり、私の大切な前衛が、ペーパーテストごときで躓くなんて許さないわ。ふゆちゃんの『魔力視』と黄龍殿の演算能力は素晴らしいけれど、それだけでは高校三年間の膨大な座学を短期間で理解させるには『教え方のバリエーション』が足りないわ」


 彩斗美は、スッと扇子を閉じ、コマンダーとしての冷徹で鋭い眼差しを結羽に向けた。


「今日から、私も家庭教師として参戦するわ。私の指揮に従いなさい、結羽さん」


「さ、彩斗美先輩が、直々に家庭教師を……!?」


「ええ。ダンジョン科の座学なんて、実戦に即した応用物理と魔力力学、そして過去の探索者の歴史が主よ。実戦経験豊富な結羽さんなら、視点さえ変えれば必ず理解できるはずよ。さあ、まずは一般物理学からいくわよ!」


 かくして、元SSランク探索者にして、日本屈指のコマンダーである佐修院彩斗美による、極限のスパルタ講義が幕を開けた。


「いいこと、結羽さん。この『重力加速度』と『放物線運動』の数式。ただの数字とアルファベットの羅列だと思っているから頭に入らないのよ」


 彩斗美が、物理の教科書をバンッと叩いて指差す。


「あなたの両手足に嵌められている『縛仙環』。その超重力を『点と面』の歩法で推進力に変換する時、あなたは無意識にこの『運動エネルギー』と『位置エネルギー』の保存則の計算を行っているの。敵の魔獣が跳躍して襲いかかってくる軌道……その頂点から落下に転じる瞬間の『重力加速度』を数式化して予測できれば、あなたの如意黒閃をフルスイングする最適なタイミング(インパクトの瞬間)が、コンマ一秒の狂いもなく導き出せるわ!」


「敵の跳躍軌道を……数式化……!」


 彩斗美の言葉は、これまでのふゆたちの「魔獣の動きのパターン」としての暗記術から、さらに一歩踏み込んだ『戦術理論』そのものだった。

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