第144話 縛仙環の日常と、ダンジョン脳の追試突破(前編)
特級探索者であり、独立Aランクギルド『よろず屋ドレイク』のマスター。
そんな日本トップクラスの肩書きを手に入れた前山田結羽であったが、彼女の通う『野田覚醒者育成学園』での日常は、栄光とは程遠い、極限のサバイバル状態にあった。
「……っ、ふぅぅ……ッ」
学園の教室。
午後のけだるい現代文の授業中、結羽は自身の席で滝のような脂汗を流し、小刻みに震えながらノートにペンを走らせていた。
彼女の両手首と両足首には、ドレイクによって出力が大幅に引き上げられた真新しい黒鋼の枷――『縛仙環(2セット目)』がガッチリと嵌められている。
常に10トン以上という途方もない超重力で装着者を押し潰そうとするその極悪な修行具を身につけたまま、現代の脆い学校設備の中で過ごすことは、結羽にとって文字通り地獄の苦行であった。
(気を抜くな……ッ! あと数グラムでも重力を下方向へ漏らしたら、椅子を粉砕して床をぶち抜いて下の階の教室まで落下しちゃうかも……!)
結羽は丹田で仙気を練り上げ、ミリ単位の『面』の制御で超重力を自らの身体の内側だけで相殺し続けている。
かつて関西遠征に向かう新幹線の車内で強いられていた、座席から身体を数ミリ浮かせる不格好な『空気椅子』ではない。 彼女は今、しっかりと椅子に腰を下ろし、机に腕を置いている。
それは、京都の納涼床や湯豆腐の修行を経て体得した、トン単位という超質量を完璧に相殺しつつ、「自分の本来の体重分」だけを対象物に預けるという、まさに神業のような重力制御の極致であった。
だが、その緻密すぎるコントロールを維持したまま、授業内容を頭に叩き込むという極限のマルチタスクは、彼女の仙気と精神力を凄まじい速度で削り取っていく。
「……前山田さん、すごいわね」
「ああ。最近では那須の神話級を倒したっていう噂があるけど、あの気迫……慢心なんてないんだろうな……」
周囲のクラスメイトたちは、滝の汗を流しながら虚空を睨みつける結羽の姿に、特級探索者としての凄みと畏敬の念を抱き、ヒソヒソと囁き合っている。
だが、結羽本人の頭の中は、そんなカッコいいものでは決してなかった。
(留年……留年だけは絶対に回避する! この現代文の授業内容も、一言一句逃さず頭に叩き込むんだからぁぁッ!)
ただひたすらに、教務課で突きつけられた「留年危機」という理不尽な恐怖と戦っていたのである。
◆◆◆
放課後。
野田市のマンションのヤサへと帰還した結羽を待っていたのは、妹のふゆと黄龍による、よろず屋特製のスパルタ補習地獄だった。
「いい、お姉ちゃん! 古文の助動詞の接続は、魔法の詠唱構文と全く同じ理屈だよ! 『る・らる』の受身・尊敬・自発・可能は、水属性魔法の起点になる基礎プロトコルと同じ四つの分岐パターン!」
『左様です。そして英語の第五文型「SVOC」は、目的語(O)と補語(C)の関係性が、魔獣へのターゲティングと属性付与の魔術回路の構造と完全に一致します』
リビングの空間に展開された青白いホログラムには、複雑な文法や歴史の年号が、魔獣の骨格図や魔法陣の構造式と入り混じって表示されていた。
「なるほど……! つまり、この関係代名詞は、二つの魔法陣を強制的に連結させるための触媒ってことですね! それならスラスラ理解できます!」
結羽の瞳に、爛々としたサバイバリストの光が宿る。
一般的な論理的思考ではゲシュタルト崩壊を起こしていた活字の羅列が、結羽の極限までダンジョン環境に最適化された『ダンジョン脳』を通すことで、魔獣の行動パターンや魔法陣の構築理論として瞬時に翻訳・吸収されていく。
「カッカッカ! 完全に頭のネジがダンジョン仕様にイカれちまってやがるな」
キッチンから香ばしい匂いを漂わせながら、ドレイクが豪快に笑い飛ばす。
「笑い事じゃないですよ、おやっさん! いよいよ明日が、留年を回避するための追試本番なんですから!」
結羽がペンを握りしめたまま抗議すると、ドレイクは巨大な黒い丼を三つ、ドンッ! とテーブルの上に置いた。
「わかってるよ。だから、明日の決戦に向けて、こいつで仙気と脳みそと身体に栄養を限界まで補給しとけってことだ」
丼の蓋を開けると、黄金色の湯気と共に、暴力的なまでに甘辛いタレの匂いと、揚げたての香ばしい匂いがリビングに弾けた。
「わぁっ! カツ丼だ!」
ふゆが歓声を上げる。
ご飯の上に乗せられているのは、ただの豚カツではない。
さいたまダンジョンで狩った狂暴な『ビッグボア』の極厚のロース肉を、仙術の炎で高温と低温を完璧に使い分けて揚げた、厚さ三センチはあろうかという特大のトンカツだ。
それが、鰹と昆布の極上出汁と、ドレイク特製の甘辛いタレで煮込まれ、色鮮やかな半熟の卵で美しくとじられている。
「カッカッカ! 追試ってんなら、勝負に『カツ』を食うのが、こっちの世界のゲン担ぎの『理』だろ?」
「おやっさん、それ、ただのダジャレですよね……?」
結羽は呆れたようにツッコミを入れつつも、たまらず箸を伸ばした。
サクッ、という衣の良い音と共に、分厚いビッグボアの肉に歯が食い込む。
「んんんっ……!!」
結羽は目を見開いた。




