第143話 結羽の絶望と、よろず屋スパルタ補習地獄の開幕(後編)
最大の要因は、彼女の四肢にガッチリと嵌められている『縛仙環(2セット目)』の存在である。
常に10トン以上という超重力の負荷をかけ続けるこの黒鋼の枷。
結羽は椅子に座っている間も、椅子や床を破壊しないように、丹田から仙気を練り上げ、ミリ単位の『面』の重力制御を持続させなければならない。
京都での湯豆腐修行の際に味わった「豆腐を崩さずに箸を操作する」という極限のマルチタスク。
それを今度は、「シャーペンを握って細かな数式を書き込みながら、脳の言語・論理野をフル回転させる」という、さらに高度で矛盾した精密作業として強要されているのだ。
ただでさえ苦手な座学で脳のキャパシティを限界まで使っているところに、肉体的な重力制御の負荷が加わり、結羽の仙気と精神力は凄まじい速度で削り取られていた。
「はぁっ……はぁっ……。だ、だめだ……頭が、真っ白に……」
結羽の手からシャーペンがポロリとこぼれ落ち、そのまま机の上にぐったりと突っ伏してしまった。
「ああっ、お姉ちゃん! しっかりして! まだ数学のドリルが3ページしか終わってないよ!」
ふゆが慌てて冷たいおしぼりを持ってきて、結羽の額に乗せる。
「カッカッカ! 完全にオーバーヒートしてやがるな。基礎体力が上がっても、脳みそのシワまでは筋肉にならねえってこった」
キッチンの方で、夜食の仕込みをしていたドレイクが、包丁の手を止めて笑い声を上げた。
彼がまな板の上で捌いているのは、以前さいたまダンジョンで仕入れて冷凍保存してあった巨大すっぽんの切り身と、那須で狩った猪の魔獣の極上背脂だ。
それを仙術の炎で一気に煮込み、濃厚な出汁を取った特製の「よろず屋流・魔獣スタミナラーメン」を作っている最中だった。
醤油とニンニク、そして魔獣の強烈な旨味が混ざり合った暴力的な香りがリビングに充満し、限界を迎えている結羽の胃袋を無慈悲に刺激する。
「おやっさん……笑ってないで、なにか助け舟を出してくださいよぉ……。それにそのラーメンの匂い、集中力が途切れちゃいます……」
結羽がすがるような視線を向けると、ドレイクはやれやれと肩をすくめた。
「俺は腕っぷしと飯の作り方は教えられるが、現代日本のガキの勉強なんざ管轄外だ。だがな、結羽。お前さん、ちょっと根本的にアプローチが間違ってんじゃねえか?」
「えっ……アプローチ、ですか?」
結羽が顔を上げると、ドレイクは巨大な中華鍋に麺を放り込みながら、言葉を続けた。
「お前さんの強みはなんだ? 机に齧りついて理屈をこね回すことか? 違うだろ。泥水すすって、痛い思いをして、バケモンの肉を喰らって、身体の芯まで理を叩き込む。それが『よろず屋の特級』のやり方だろ」
「身体の、芯まで……」
「ただの数字の羅列だの、記号だのと思うから頭に入らねえんだ。全部、お前さんが今までダンジョンで潜り抜けてきた『死線』と『理』に置き換えてみろ」
ドレイクのその言葉に、ふゆがハッとしたようにポンッと手を打った。
「そうか! お姉ちゃんは、理屈じゃなくて『感覚』と『パターン』で覚えるタイプだよね!」
『……なるほど。同位同食によって極限までダンジョン環境に最適化された結羽殿の脳は、座学の論理的思考よりも、生存本能に直結した『直感的なパターンの記憶』の方に著しく特化しているということですか。師父、見事な洞察です』
黄龍の宝珠が、感心したように明るく明滅した。
「黄龍先生! やり方を変えよう! お姉ちゃんの頭の中を、ダンジョンのシミュレーターにするんだ!」
「ダンジョンの、シミュレーター……?」
結羽がキョトンとしていると、ふゆはスマートフォンを操作し、リビングの空間に青白いホログラムを投影した。
「いい、お姉ちゃん。数学の公式は、ただの記号じゃないの。これは『魔獣の攻撃パターン』だよ!」
ふゆが投影したホログラムには、複雑な因数分解の公式が浮かび上がっている。
だが、ふゆがその横に赤城山ダンジョンで戦った「ヒュドラの首の動き」の軌道図を並べて表示した。
「ヒュドラのブレスを避ける時、お姉ちゃんは右から二番目の首の動きを『エックス』、左の首の動きを『ワイ』として、瞬時に死角(安全地帯)を計算していたでしょ? それと同じ! この数式は、バラバラに見える魔獣の群れの動きを、ひとつの『法則』にまとめるための歩法なんだよ!」
「魔獣の動きを、法則にまとめる……歩法……!」
その瞬間、結羽の瞳の奥に、スッと鋭い光が宿った。
ただの無機質な記号だった「X」と「Y」が、突然、殺意を持って迫り来る魔獣の牙と爪の軌道に見えてきたのだ。
「……わかる。もしこの『エックス』の攻撃が来たら、わたしは『面』の歩法で回避して、その隙に『マイナス』の方向にカウンターを入れる……!」
結羽がペンを握り直し、ノートに向かう。
先ほどまでのゲシュタルト崩壊の虚ろな瞳は消え去り、そこにあるのは、深淵層のボスを前にした特級探索者の極限の集中力だった。
「スラスラ解ける……! なんだ、数学って、要するに複数の敵の連携パターンを一つの公式で一網打尽にするための戦術理論じゃないですか!」
結羽のペンが、ノートの上を滑るように走り始めた。
縛仙環の超重力制御さえも、今は戦場での「仙気の練り上げ」と同じプロセスとして完全に意識の裏側に同化している。
『素晴らしい。……歴史の暗記はいかがですか、結羽殿』
黄龍が、今度は年号と歴史的事件のリストを投影する。
「歴史は……そうだ、これは『過去のダンジョンアタックのログ』です! 過去の探索者たちが、どんな装備で、どんな判断ミスをして全滅したのか、あるいは勝利したのか。その傾向と対策のデータだと思えば、絶対に頭に叩き込んでおかないと死にます!」
結羽の瞳に、サバイバリスト特有の「生き残るための執念」が燃え上がる。
「カッカッカ! 完全に『ダンジョン脳』に切り替わりやがったな。いいぞ、その調子でガンガン頭に喰い込ませろ!」
ドレイクが、湯気を立てるラーメンの鉢を三つテーブルに並べながら、満足げな声を上げた。
「さあ、夜食だ! すっぽんの精をたっぷり吸い込んで、朝までぶっ通しで駆け抜けろ!」
普通の女子高生としての座学能力は絶望的でも。
特級探索者としての「生存本能」と「戦闘の理」に直結させた瞬間、結羽の脳は、恐ろしいほどのスポンジと化して知識を吸収し始めた。
「いける……これなら、いけます! ふゆ先生、黄龍先生! ラーメンを食べたら、次のパターンの提示をお願いします!」
「うんっ! その意気だよ、お姉ちゃん! 一気に追試の範囲を終わらせちゃおう!」
千葉県野田市、前山田家のリビング。
留年という最大の理不尽を叩き割るため、特級探索者・前山田結羽の「ダンジョン脳の暗記術」という名の、新たな極限修行の夜が更けていくのだった。




