第142話 結羽の絶望と、よろず屋スパルタ補習地獄の開幕(前編)
特級探索者のライセンスと、独立Aランクギルドのマスターという栄光を手にした翌日。
千葉県野田市にある前山田家のリビングには、この世のすべての不幸と絶望を一身に背負い込んだかのような、どんよりとした暗雲が垂れ込めていた。
「うぅぅぅ……。留年……。ふゆと同級生……。うぅぅぅぅ……」
ダイニングテーブルに突っ伏した結羽の口から、呪詛のような呻き声が絶え間なく漏れ出ている。
彼女の両手首と両足首には、昨日ドレイクの工房で出力を大幅に引き上げられた真新しい『縛仙環(2セット目)』がガッチリと嵌められていた。
常に10トン以上の質量で装着者を押し潰そうとするその極悪な黒鋼の枷を、ただ椅子に座って支えているだけでも、途方もない仙気を消費する。
だが、今の結羽の心をすり減らしているのは、その物理的な超重力ではなかった。
学園の教務課で突きつけられた、「圧倒的な単位不足と赤点による留年危機」。
そして何より、天才的な頭脳と黄龍のハッキングサポートであっさりと中等部までをスキップ卒業してしまった妹のふゆから告げられた、「春からは高校で同級生になっちゃうね」という純真無垢な一言が、特級探索者にして姉としてのプライドを粉々に打ち砕いていたのである。
「カッカッカ! 何度見ても傑作だな! 神話級の魔獣を物理で粉砕した特級探索者サマが、学校のペーパーテストにビビッて泣きべそかいてやがる!」
対面のソファにどっかりと腰を下ろし、朝から缶ビールを煽っているドレイクが、腹を抱えて大爆笑している。
「笑い事じゃないですよぉ、おやっさん……! 特級探索者なのに留年なんて、ギルドの面目丸潰れじゃないですかぁ……!」
結羽が涙目で抗議するが、ドレイクは全く意に介さない。
『師父の仰る通り、滑稽極まりない事態ではありますが……笑ってばかりもいられませんよ、結羽殿。事態は極めて深刻です』
テーブルの上に置かれたスマートフォンから、黄龍の風雅な、しかし容赦のない合成音声が響いた。
ホログラムとして空中に投影されたのは、結羽の『野田覚醒者育成学園・ダンジョン科』における成績データと出席状況のグラフだった。
『私めが学園のデータベースに少々干渉して確認したところ、結羽殿の出席日数は、関西や那須への長期遠征の影響により、進級に必要な最低ラインをすでに割り込む寸前です。さらに……』
黄龍の宝珠が非情な赤色に明滅し、空中のグラフが次々と赤い警告マークで埋め尽くされていく。
『現代文、数学、歴史、英語、そして一般物理学。……実技以外のすべての座学教養科目において、見事なまでの赤点を叩き出しております。はっきり申し上げて、絶望的です』
「うぎゃぁぁぁっ! 見ないで! その赤い数字は見ないでぇぇっ!」
結羽は両手で顔を覆い、テーブルの上でのたうち回った。
かつて「ハズレ枠」と呼ばれ、ステータスボードの低い数字に絶望していた頃と同じような、いや、それ以上の精神的ダメージが結羽を襲う。
ダンジョンの魔獣なら、どんなに強大でも物理と理で殴れば倒せる。
しかし、学園のシステムが突きつけてくる「単位」と「テストの点数」という数字の壁は、如意黒閃でいくらぶっ叩いても決してクリアすることはできないのだ。
「仕方ねえだろ。お前さん、この数ヶ月間はずーっとダンジョンに潜りっぱなしで、机に向かって勉強する暇なんて一秒もなかったんだからな。……だが、ルールはルールだ。俺たち『よろず屋』は、理不尽なシステムをぶち壊すのが仕事だが、自分たちが所属してる社会のルールから逃げるような真似はしねえ。そうだろ?」
ドレイクがビールの空き缶を置き、黄金の龍眼で結羽を真っ直ぐに見据えた。
「は、はい……」
「なら、やるこたぁ一つだ。来週に迫った『進級を賭けた追試』とやらを、死ぬ気で突破しろ。神話のバケモンを倒したお前さんなら、紙っぺらの上の数字くらいいくらでもひっくり返せるはずだ」
「おやっさんの言う通りだよ、お姉ちゃん!」
エプロン姿でキッチンから現れたふゆが、両手に分厚い参考書と問題集の束を抱えて、ドンッ! とテーブルの上に積み上げた。
「わたしと黄龍先生が、お姉ちゃんが絶対に追試をパスできるように、完璧なカリキュラムを組んだからね! 今日からよろず屋特製の、スパルタ補習地獄の始まりだよ!」
ニコニコとひまわりのような笑顔を浮かべる妹の背後に、結羽は修羅の幻影を見たような気がした。
中等部までの全カリキュラムを数ヶ月でスキップし、すでに黄龍の高度な演算やプログラミングすら理解しつつある「天才オペレーター」のふゆ。
彼女にとって、高校一年の一般教養など、すでに理解し尽くした初歩の初歩に過ぎないのだ。
「えっと……ふゆ先生。お手柔らかに、お願い、します……」
「そのお願いはきけないよ! お姉ちゃんが留年したら、本当にわたしと同級生になっちゃうんだからね! ビッシビシ行くからね! さあ、まずは一番点数がひどかった数学からいくよ!」
かくして、よろず屋パーティーの平和な日常の裏側で、前山田結羽の尊厳と進級を賭けた、血みどろの座学特訓が幕を開けたのである。
◆◆◆
数時間後。
すっかり日が落ちて夜の帳が下りた前山田家のリビングには、先ほどまでの威勢の良さは完全に消え失せ、今にも魂が抜け出そうになっている結羽の姿があった。
「……えっと、ここをエックスでくくって……で、この公式に当てはめると……わかんない。数字がゲシュタルト崩壊してきた……」
結羽はシャーペンを握りしめたまま、ノートの上の数式を虚ろな目で見つめていた。
その額からは、滝のような汗が流れ落ち、頭頂部からは比喩ではなく本当に「プシューッ」という知恵熱の湯気が立ち上っている。
『結羽殿。先ほどから同じ計算ミスを繰り返しておりますよ。因数分解の基礎が完全に抜け落ちています。……魔獣の関節の構造をミリ単位で見切る貴女の空間把握能力があれば、この程度の数式展開など瞬時に理解できるはずなのですが』
黄龍の呆れたような声が響くが、結羽の耳にはもはやまともに届いていなかった。
「違うんです、黄龍さん……。魔獣の関節は実際に動くし、殴れば感触があるじゃないですか。でも、この『エックス』とか『ワイ』とかいう記号は、何のために存在してるのか、全然実感として湧いてこないんです……っ!」
結羽が涙目で反論する。
彼女の不調の原因は、単に勉強が苦手だからというだけではなかった。




