第138話 黒鋼の昇華と、絶望の予備装着(前編)
栃木県・那須の殺生石ダンジョンの深淵にて、日本全土を覆う広域洗脳ネットワークのアンテナ『九尾の狐』を完全に粉砕し、異世界アストライアにいる両親へ向けた『ボトルレター』の送信という大仕事を成し遂げた新生よろず屋パーティー。
彼らは無事、千葉県野田市のヤサ――前山田家とドレイクの工房があるマンションへと帰還を果たしていた。
時刻はすでに夜更けを回っている。
道中、狂乱から救出されて正気に戻った北関東のAランクギルド『赤銅の牙』の面々から、平身低頭しての涙ながらの感謝と謝罪を受けたものの、ドレイクは「帰って美味い飯でも食いな」と一蹴し、足早に家路を急いだのだった。
「ふぅ……。やっぱり家のお風呂が一番落ち着くね、お姉ちゃん」
「そうだね。あー、さっぱりした」
湯上がりで少し火照った顔をしたふゆが、パジャマ姿で冷蔵庫から冷たい麦茶の入ったピッチャーを取り出し、グラスに注いで結羽に差し出す。
「はい、お姉ちゃん」
「ありがとう、ふゆ」
結羽はグラスを受け取ろうと右手を伸ばしたが、その動きには、まるで薄氷の上を歩くような極限の慎重さが伴っていた。
彼女の両手首と両足首には、未だに黒光りする金属の枷――『縛仙環』がしっかりと嵌められている。
装着者の仙気を際限なく吸い上げ、超重力へと変換して押し潰そうとする、仙人をも拘束する極悪な修行具。
結羽がグラスを掴む一瞬でも気を抜いて重力を漏らせば、ガラスのコップなど一瞬で粉微塵に砕け散り、下手をすれば床をぶち抜いて下の階まで大惨事になってしまうのだ。
京都での湯豆腐修行を経て、彼女の『点と面』の重力制御技術は極限まで洗練されている。
(重い……。でも、気を抜いちゃダメだ。指先の一ミリまで、理を通す……ッ!)
結羽は丹田の奥底で仙気を練り、ミリ単位の反発力で縛仙環の圧倒的な質量を相殺しながら、そっとグラスを受け取った。
「ごくっ……ぷはぁっ! 美味しい!」
「あはは、お姉ちゃん、コップ持つだけでもすごい真剣な顔してたよ。本当に大変なんだね、その黒い重り」
ふゆが苦笑いしながら結羽の手首の枷を指差す。
「うん……。でも、那須の深淵で九尾のキツネと戦った時、この重さを全部攻撃に乗せる感覚がわかったから。今はただ重いだけじゃなくて、なんだか身体の一部みたいに馴染んできてる気がするよ」
結羽が自身の腕に嵌められた黒鋼を見つめて微笑んだ、その時だった。
隣――ドレイクの工房から、彼特有の低い声の念話が響いてきた。
『おう、結羽。湯冷ましが終わったらこっちへ来い。約束の大掃除の「仕上げ」をすませるぞ』
「あっ、おやっさんから呼ばれた! 行ってくるね、ふゆ」
「うんっ! 武器のアップデートだね、頑張って!」
◆◆◆
防音扉を開け、ドレイクの工房へと足を踏み入れると、そこはすでに凄まじい熱気に包まれていた。
部屋の中央にある黒鋼の作業台の上には、結羽の相棒である鈍い銀光を放つ『如意棍棒』が置かれ、その傍らには極小の魔法陣で構築された特製の炉が、青白い炎を上げて轟々と燃え盛っている。
「お疲れ様です、おやっさん!」
「おう。今回もなんとかなったな。多少の油断はあったが、成果を考えりゃ大成功だ……ほれ、手足を出せ」
ドレイクは咥えていたタバコを携帯灰皿に揉み消すと、太い指先で結羽の手首と足首に触れた。
カチャッ、という乾いた金属音と共に、結羽を四六時中縛り付けていた四つの『縛仙環』のロックが解除される。
「――っ!!」
枷が外れ、床にゴトンッと鈍い音を立てて落ちた瞬間。
結羽は、自分の身体がまるで風船にでもなったかのように、ふわりと天井まで浮き上がってしまいそうな猛烈な『無重力感』に襲われた。
「うわぁっ!? か、体が……羽みたいに軽いです……!」
結羽は思わずその場でぴょんぴょんと軽く跳ねてみるが、少し足首に力を入れただけで、天井に頭をぶつけそうになるほどの尋常ではない跳躍力だった。
常に数トンという超重力の負荷に逆らい続けてきた彼女の筋肉と仙気の循環回路は、縛仙環というリミッターを外されたことで、爆発的な出力を発揮していたのだ。
「カッカッカ! 急に力を抜かれて、重力の感覚がバグってやがるな。……だが、見ろ」
ドレイクは、床に転がった四つの黒鋼の枷を拾い上げ、満足げに黄金の瞳を細めた。
「切り出したばかりの頃は、ただ周囲の空間を無差別に押し潰すだけの荒々しいバケモンだったが……今はどうだ。まるでお前さんの分身みたいに、静かに、そして深く魔力を湛えてやがる」
ドレイクの言葉通り、四つの縛仙環は、ただそこにあるだけで空気を歪めるような暴威を潜め、代わりに鈍く、そして澄み切った黒光りを放っていた。
関西遠征での恐怖の空気椅子から、人混みの中での絶対回避、そして那須ダンジョンの死闘に至るまでの過酷な日々。
その膨大な仙気を吸い込み続け、黒鋼の分子レベルにまで彼女の『理』と魔力波長が完全に記憶されたのだ。
「お前さんの仙気が、骨の髄まで完全に染み込んでる。極上の熟成だ。……これなら、如意棍棒の芯材として組み込んでも、お前さんの気と一切反発しねえ、最高の相棒になるぜ」
「わたしの仙気が、染み込んだ黒鋼……」
「さあ、錬成を始めるぞ。結羽、お前さんはそこで丹田の気を練りながら、棍に自分の意志を流し込み続けろ」
ドレイクは、結羽の仙気が染み込んだ四つの縛仙環を、躊躇うことなく青白い炎が燃え盛る炉の中へと放り込んだ。
神話級の最高金属である黒鋼は、通常の炎では数百年炙っても溶けることはない。
だが、ドレイクが自らの指先から放つ純粋な火龍の仙気と、極限まで圧縮された『極小ブレス』の熱線を注ぎ込むと、黒鋼は次第に赤熱し、やがてドロドロの液状へと姿を変え始めた。
「黄龍、出力の制御と温度管理を頼むぜ」
『承知いたしました、師父。黒鋼の分子結合が融解する臨界点……今です』
黄龍の合図と同時に、ドレイクは液状化した黒鋼を、作業台に固定された如意棍棒の上に素早く、そして精密な動作で流し込んでいく。
「シィィィィッ……!!」
ドレイクが片手に持ったハンマー――ただの鉄塊ではなく、極限まで圧縮された仙気そのもので形成された不可視の槌が、凄まじい速度で棍を打ち据える。




