第128話 芦ノ湖の再来と、狂乱の『赤銅の牙』(前編)
栃木県、那須湯本。
佐修院家の莫大な資本と黒田の完璧な手腕によって構築された前線基地に見送られ、新生よろず屋パーティーの四人は、『殺生石ダンジョン』の内部へとその足を踏み入れた。
分厚い防護結界のゲートを抜け、薄暗い洞窟の中へ一歩進んだ瞬間、結羽は思わず顔をしかめた。
「うわっ……すごい匂い。それに、なんだか頭の奥がクラクラします……!」
「箱根の芦ノ湖ダンジョンを思い出すわね。あそこも強烈な火山ガスと硫黄の匂いが立ち込めていたけれど、ここの瘴気はそれ以上に質が悪いわ」
彩斗美が、周囲の淀んだ空気を鋭い眼差しで見据える。
芦ノ湖ダンジョンが、ヒュドラの放つ『純粋な猛毒』の空間であったとすれば、この殺生石ダンジョンは、毒ガスに加えて、精神を直接蝕む『幻術の魔素』が濃密にブレンドされた悪意の空間だった。
「ふゆ! 結界の展開を!」
「了解だよ、彩斗美さん! 『防毒・幻術中和のシリンジ魔弾』、展開!」
最後尾を歩くふゆが、魔導シリンジガンの引き金を引く。
パンッ! という軽快な破裂音と共に、淡い緑色と青色の魔力粒子が四人の周囲にドーム状に広がり、有毒なガスと幻術の魔素を完璧に弾き出した。
「これで大丈夫! 黄龍先生の波長解析データとリンクさせてるから、妲己の洗脳電波も完全にシャットアウトしてるよ!」
『ええ。ふゆ殿の演算能力は完璧です。この空間内であれば、我々が幻術や洗脳の干渉を受けることは一切ありません』
ふゆの言葉を裏付けるように、黄龍の宝珠が頼もしく明滅する。
「カッカッカ! 万全の後方支援だ。これなら毒の海だろうが幻の森だろうが、ピクニックと変わらねえな」
ドレイクは、周囲の毒ガスなど全く気にする様子もなく、新しいタバコに火を点けて紫煙を吐き出した。
「さあ、結羽。重力のコントロールはどうだ? 座って豆腐を食うよりは、まだ歩いてる方がマシだろ?」
「……はいっ。止まっているよりは、動いている方がごまかしが効きますから……ッ!」
結羽は、額にうっすらと汗を浮かべながらも、力強く頷いた。
両手首と両足首に嵌められた黒鋼の枷、『縛仙環』。
数トンに及ぶ超重力を、丹田からの仙気の反発力で相殺し続けるという地獄の修行。
京都での湯豆腐の際に味わった、「豆腐を崩さないように箸を操作する」というミリ単位の精密動作に比べれば、ただ歩幅を合わせて前へ進む『面』の制御は、すでに結羽の身体に確かな歩法として定着しつつあった。
ズズンッ、ズズズンッ……!
四人がダンジョンの赤茶けた岩肌を中層に向けて下っていくと、前方の開けた岩場から、地鳴りのような足音と獣の咆哮が響いてきた。
「お姉ちゃん、前方に敵影! 巨大な猪の魔獣が三体、熊型が二体だよ! ……気をつけて、周囲の幻術魔素を纏って、分身してるみたいに見せてる!」
ふゆの『魔力視』を通した的確なナビゲートが飛ぶ。
結羽の視界の先には、赤い眼をギラつかせた巨大なビッグボアの亜種と、全身の毛皮が金属のように硬質化したアームドベアの群れが、濃霧の中でブレるように十数体に分裂して襲いかかってくるのが見えた。
「幻術のフェイント……! でも、ふゆの眼があれば、本物は丸わかりです!」
結羽は、銀色の『如意棍棒』を両手で構え、グッと腰を落とした。
縛仙環の超重力を、ただ仙気で相殺して支えるだけではない。
結羽は、下に向かおうとする数トンのベクトルを、踏み込みの瞬間にのみ『前方』への推進力として一気に解放した。
ダンッ!!
岩盤がクレーターのように抉れ、結羽の身体が弾丸のような速度で分身の群れへと突っ込んでいく。
「グルルルァァッ!!」
幻影に隠れていた本物のアームドベアが、結羽めがけて金属の豪腕を振り下ろす。
だが、その腕が届くよりも早く。
彩斗美が中衛から放った『蛇腹剣』の刃が、変幻自在の軌道を描いてアームドベアの視界を遮り、鋭い斬撃で金属の毛皮を弾き飛ばした。
「そこよ、結羽!」
「はいッ!」
結羽は、推進力と遠心力のすべてを如意棍棒の先端に集中させ、ガラ空きになった熊の胴体めがけて如意棍棒を渾身のフルスイングで叩き込んだ。
ゴアァァァァンッ!!
大気を震わせる轟音と共に、アームドベアの巨体がひしゃげ、岩壁に激突して光の粒子となって消滅する。
「……素晴らしい威力ね。重力を推進力と打撃力に変換するなんて。あの黒鋼の枷は、ただの修行具ではなく、あなた自身の『武器』に昇華されつつあるわ」
彩斗美が、流れるような動作で蛇腹剣を収めながら感嘆の息を漏らす。
「カッカッカ! 伊達に俺のちゃんこを毎日食ってねえってことだ。……よし、この調子でガンガン進むぞ」
ドレイクの豪快な笑い声と共に、一行は立ち塞がる山の魔獣たちを瞬く間に粉砕し、さらに奥深くへと進んでいった。
◆◆◆
だが、中層のさらに奥、硫黄のガスが最も濃く立ち込める岩場に差し掛かった時。
結羽たちは、耳を疑うような光景と音に直面し、足を止めた。
「死ねッ! 俺の邪魔をする奴は、誰であろうと殺すッ!!」
「違う! あそこにあるのは俺の……俺たちギルドがSランクになるための切符だァァッ!!」
激しい金属の衝突音と、魔法の爆発音。
そして、血走った眼で狂気のような絶叫を上げる人間たちの声。
岩場の中心で、十数人の探索者たちが、魔獣ではなく『人間同士』で凄惨な殺し合いを繰り広げていた。
彼らは皆、最新鋭の重装甲や、高価な防毒マスクに身を包んでいる。
その装備にあしらわれたエンブレムは、彩斗美が事前に警戒していた北関東のAランクギルド『赤銅の牙』のもので間違いなかった。
しかし、その立派な装備とは裏腹に、彼らの内面は完全に崩壊していた。




