第126話 湯豆腐の滋味と、トップギルドの勢力図(前編)
ホテルに一泊した翌日の昼下がり。
京都・南禅寺の参道に軒を連ねる、歴史ある湯豆腐の名店。
打ち水がされた涼やかな石畳の美しい庭園を抜け、よろず屋パーティーの四人と黒田が通されたのは、青々とした木立の風が心地よく吹き抜ける、広々とした奥の座敷だった。
昨晩の鴨川の納涼床での極上の『鱧の落とし』に続き、今日のメインは京都のもう一つの名物、湯豆腐である。
だが、その歴史と風情あふれる優雅なひとときを過ごす座敷の席でさえ、結羽にとっては息を抜くことの許されない極限の戦場であった。
(お、重い……! でも、座るのは……なんとか……ッ!)
結羽の両手首と両足首に嵌められた黒鋼の枷、『縛仙環』。
昨夜の納涼床までの地獄の歩行トレーニングを経て、結羽は「極限まで集中していれば、座布団の上に重さを漏らさずに座ってご飯を食べる」という『面』の重力制御技術を、ようやく自身の血肉として叩き込みつつあった。
彼女の身体は、数トンに及ぶ自重を丹田からの仙気の反発力で完全に相殺した状態を完璧に維持している。
しかし、結羽の前に立ちはだかる次なる地獄は、彼女の目の前にある年代物の土鍋の中で、昆布出汁と共にコトコトと煮えている白く美しい食べ物――『絹ごし豆腐』であった。
「カッカッカ! どうした結羽、そんなに箸をプルプル震わせてちゃあ、柔らかい豆腐が崩れちまうぞ。丹田の気を練り直せ。歩幅や姿勢の『面』の制御だけじゃねえ。指先の末端まで、きっちりミリ単位の『点』の理を通すんだ」
「うぅぅ……わか、ってます……ッ!」
結羽は額にうっすらと脂汗を浮かべ、菜箸を握りしめていた。
数トンの質量を相殺した状態を維持しつつ、さらにその上で「柔らかい豆腐を崩さない程度の絶妙な力加減」で箸を操作する。
それは、全力でアクセルを踏み込んだダンプカーのブレーキをミリ単位で調整しながら、薄氷の上を走るような、矛盾を極めた恐ろしい精密作業だった。
少しでも力めば箸が折れる。
少しでも仙気がブレて重力が漏れれば、豆腐どころか土鍋ごと粉微塵に弾け飛んでしまう。
「はぁっ……っ!」
結羽は呼吸を細く絞り、全神経を指先に集中させた。
昨夜、納涼床で見たハモの骨切り職人の技。
対象の『理』を完璧に見切って、必要な部分だけを細かに断つ技術。
結羽は、お湯の中で揺れる豆腐を見つめながら、あの時の包丁の動きと音を脳内で再生していた。
硬い骨を断ち切るだけでなく、肉の繊維を柔らかく食べやすくするための究極の技術。
(……人間の集中力と反復動作による学習は、あんなに精緻な技術をあんな速度で成せるんだ。もちろん長い修練の末になんだろうけれど……人間の可能性として「できない」わけじゃない……! だったら今、お豆腐を崩さずお箸で持つことだって「できない」わけじゃない……!)
そんな『理』を真剣に考えているからこそ、結羽の指先には余計な力みが生まれず、縛仙環の超重力下にあっても、菜箸が崩れやすい絹ごし豆腐をふわりと優しく挟み込むことができた。
そのまま、重力のベクトルを完璧に制御しながら手元へ引き寄せ、自分の小鉢のポン酢の中へそっと落とす。
「で、できた……!」
結羽はそのまま箸で小さく切り分け、口に運ぶ。
「んんっ……! 美味しい……! 大豆の甘みがすっごく濃くて、ポン酢の酸味とよく合います!」
結羽の顔が、極限の苦悶から一瞬にして至福の表情へとパァッと花開いた。
「暑い中、涼しい部屋で熱いもんを食べるってのも悪くねぇだろ。上質なタンパク質と、胃にも消化にも優しい最高の仕事だ。うめぇな……滋味が染み入るぜ」
アロハシャツ姿のドレイクが、湯豆腐を次々と口に運びながら、深く満足げに息を吐き出した。
数千年の時を生きる火龍が、人間社会の、それも日本の伝統的な食文化の奥深さを誰よりも堪能している。
その光景に、向かいに座る佐修院彩斗美も、クスリと上品に微笑みながら箸を進めた。
「ええ。昨日の鱧も絶品だったけれど、このシンプルな湯豆腐もまた格別ね。ドレイク殿の仰る通り、これからの激戦に向けて、胃腸を整えるには最適な食事だわ」
彩斗美は、湯豆腐の乗った小鉢を静かに置き、冷たいお茶で口を潤した。
彼女の漆黒の瞳には、ただ食事を楽しむだけでなく、かつて日本のトップギルドを率いていた『コマンダー』としての鋭く知的な光が宿っている。
「さて。美味しいお食事の合間に申し訳ないけれど……そろそろ本題……次の仕事の話をしておきましょうか」
彩斗美の言葉に、結羽とふゆ、そしてドレイクも箸を止め、居住まいを正した。
彼らの次なる目的地は、関東の北部・栃木県に位置する『那須・殺生石ダンジョン』。
そこに巣食う神話級亜種『九尾の狐』を粉砕し、日本全土を覆う広域洗脳ネットワークを掌握することが、今回の遠征の最大の目的だ。
「昨日京都で集めたデータと、黄龍殿の解析で結論は出たわ。アストライアの光華王朝が遺した『妲己システム』は、自律型で環境に適応し、分裂・増殖する極めて厄介な兵器のようね」
彩斗美は自身のスマートフォンを操作し、テーブルの上の空間に、日本のギルド勢力図とネットワークの構造を示す青白い立体ホログラムを投影した。
「つまり、日本列島を覆う洗脳ネットワークの発信源として、完全に地脈に定着している那須の『九尾の狐』を、欠片も残さず叩き潰してマスター権限を奪う。そうしなければ、この国の洗脳ネットワークを解除することはできない、といったところね」
『左様です。問題の切り分けとしては極めてシンプルになりました。……しかし、その本丸へ向かうにあたり、一つ懸念すべき人間の動きがあります』
黄龍の宝珠が明滅し、ホログラムの北関東エリアが赤くハイライトされた。
「那須のダンジョンは、箱根・芦ノ湖と同じく、強力な有毒ガス……硫化水素と、そして凶悪な『幻術トラップ』が支配する、条件付き共生・監視レベルの迷宮よ。道中には猪や鹿、熊といった強力な野生動物型の魔獣が、幻術を纏って襲いかかってくるわ。だが、今回私たちが最も警戒しなければならないのは、魔獣や環境だけじゃない」
彩斗美がコマンダーとしての冷徹な声で続ける。
「今、日本のダンジョン業界を牛耳っているトップギルド……いわゆるSランクの超大型クランは、新宿に本部を置く『東京』、工業地帯と遺跡型ダンジョンを掌握する『神奈川』、そして私の古巣でもある『関西』の三大派閥が拮抗している状態よ。でも、その均衡を崩そうと、最も血気盛んで野心的な動きを見せているのが……那須ダンジョンを管轄に持つ、北関東のAランクギルド『赤銅の牙』よ」




