第125話 京都調査と、絶対回避(後編)
ミリ単位での仙気コントロール。
相手の歩調と軌道を先読みし、水流のように人混みの隙間を縫って歩く。
「お姉ちゃん、あそこの抹茶パフェのお店、すっごく並んでるよ! 帰りに寄ろうよ!」
「ふふっ。お腹に入り切るかしらね、ふゆちゃん。でも、せっかくの京都だもの、甘いものは別腹ね」
隣を歩くふゆと彩斗美の優雅な観光会話に、結羽は「は、はいぃぃ……ッ!」と引きつった笑顔で返すのが精一杯だった。
背後で、隠形したドレイクが『ほれほれ、右後ろからカメラ構えたジジイがバックしてくるぞ。重さを漏らさず避けろ!』と容赦ないプレッシャーをかけてくる。
鴨川の納涼床に到着した瞬間、結羽の口からは魂が抜けるような深いため息が漏れた。
「よしよし、よく辿り着いたな、結羽。合格だ」
ドレイクが、隠形を解いて結羽の隣にどっかりと胡坐をかき、おしぼりで首の汗を拭う。
「おやっさん……もう、死ぬかと思いました……」
「カッカッカ! だが、その縛仙環の重みを背負ったまま、完璧に気配を殺して人混みをすり抜けた。お前さんの空間把握と『面』の歩法は、また一つ上の次元に上がったぜ」
ドレイクの言葉通り、結羽の身体は悲鳴を上げながらも、確実に黒鋼の理不尽な特性を自らの内に取り込み、順応しつつあった。
納涼床の木材を軋ませもせず、座布団の上に姿勢良く座っている。
なんの罪もない観光客を無差別に破壊してしまうかもしれない恐怖に比べれば、自分にかかっている超重力を仙気の循環で相殺するなど、さほど難しくもなくなっていた。
「さあ、皆さん。まずは冷たいお飲み物で乾杯しましょうか。結羽さんも、修行の後の食事は格別でしょう?」
彩斗美の合図で、黒田が手配していた仲居が、冷たいビールやジュースを運んでくる。
そして、鴨川の川風が火照った身体を心地よく冷ます中、運ばれてきた最初の一皿に、結羽とふゆは目を丸くした。
「わぁ……! お花みたいに綺麗……!」
氷を敷き詰めた美しいガラスの器。
その上に乗っていたのは、純白の身が牡丹の花のようにふわりと開いた、見事な『鱧の落とし』だった。
添えられているのは、真っ赤な特製の梅肉ソース。
「夏の京都といえば、やっぱりこれよね。……どうぞ、召し上がれ」
彩斗美が微笑み、結羽たちはさっそく箸を伸ばした。
箸使いとなれば、座ったり歩いたりするのとは、また別の微細な仙気のコントロールが必要になる。
震える腕と指をミリ単位のコントロールで抑えながら鱧を箸でつまみ上げ、梅肉ソースを少しだけつけて、一口で頬張る。
「んんっ……! 美味しい……! お魚なのに、すっごく弾力があって、でも口の中でホロホロって溶けちゃいます! 梅肉の酸っぱさが、疲れを全部吹き飛ばしてくれるみたい!」
結羽が両頬を押さえて感嘆の声を上げる。
「本当だぁ! 骨なんて全然気にならないよ!」
ふゆも目を輝かせて二切れ目を口に運ぶ。
「ほう。こいつはてえしたもんだ」
ドレイクもまた、鱧の落としを噛み締めながら、炎金の瞳を細めて感心したように鼻を鳴らした。
「おやっさん、アストライアにもこういうお魚の料理はあったんですか?」
「いや。向こうじゃ魚は焼くか煮るかだな。……それに俺が感心してんのは味だけじゃねえ。この『骨切り』の技術だ」
ドレイクは箸で鱧の身をつまみ上げ、その表面に施された芸術的なまでの細かい切れ目を指差した。
「鱧ってのはな、身の中に硬くて細かい骨が無数に走ってて、普通に切り身にしただけじゃ口に刺さって食えたもんじゃねえ。だが、この板前は……身の皮一枚だけを絶妙に残して、一寸(約三センチ)の間に二十回以上も包丁を入れ、骨だけを完全に断ち切ってやがる」
「皮一枚残して、骨だけを……」
結羽はハッとして、料亭の奥にある厨房の方へと視線を向けた。
かすかにだが、聞こえる。
シャッ、シャッ、シャッ……と、重い包丁がまな板に触れるか触れないかのギリギリのラインで、一定のリズムで鱧の骨を断ち切る小気味良い音が。
それは、魔力を込めた魔法の斬撃などではない。
ただひたすらに研鑽を積んだ、人間の職人による究極の『物理の理』だ。
(……すごい。ただ力任せに叩き切るんじゃなくて、骨の繊維と皮の境目――対象の『理』を完璧に見切って、必要な部分だけを断つ技術……)
結羽の瞳の奥で、特級探索者としての凄みが、静かに炎を上げた。
「おやっさん。……この『骨切り』の技術。多頭蛇みたいな、細かくて強靭な筋肉の繊維を持つ魔獣の解体や、部位破壊にも応用できないでしょうか?」
ただ美味しい料理を食べるだけでなく、そこから強くなるための『理』を貪欲に盗み取ろうとする弟子。
その言葉に、ドレイクは心底嬉しそうに、カッカッカと豪快に笑った。
「上等だ、結羽。料理も武術も、行き着くところは同じ『理』だ。相手の構造を知り、無駄なく的確に断ち切る。それができりゃあ、あの赤城山での戦いよりも、さらに鮮やかに敵の首を解体できるようになるぜ」
「はいッ! ……わたし、この音と感覚、絶対に身体に叩き込みます!」
結羽は、手首の縛仙環の重みを仙気で御しながら、再び鱧の落としを口に運んだ。
それはただの食事ではない。
次なる決戦の地――那須の深淵に潜む『九尾の狐』を粉砕するための、極上の修行であった。




