第124話 京都調査と、絶対回避(前編)
有馬の緑豊かな山並みを背にして車を走らせること約一時間。
合流した黒田が運転する高級SUVは、四方を山に囲まれた盆地特有の、まるでサウナのようにねっとりとまとわりつく熱気を孕んだ古都・京都へと足を踏み入れていた。
窓の外ではジージーと喧しいほどの蝉時雨が降り注ぎ、アスファルトからは蜃気楼のように陽炎が立ち上っている。
「うわぁ……有馬よりもずっと暑いね。車の外に出ただけで、息を吸うだけで空気が重いよぅ」
「盆地だからね。風が抜けにくい地形なんだよ。それに、この時期の京都は国内外から観光のお客さんもすごく多いから、人の熱気も合わさってすごいんだよね」
後部座席でタオル地のハンカチをパタパタと扇ぐふゆに、結羽が引きつったような苦笑いしながら答える。
だが、その結羽自身の額や首筋からは、ふゆとは比較にならないほどの滝のような脂汗が止めどなく流れ落ち、着ているTシャツをぐっしょりと濡らしていた。
「……はぁっ……っ、ふぅぅ……ッ」
(重い……! 空気が重いんじゃなくて、手と足が……地球の引力全部に引っ張られて、千切れそう……ッ!)
結羽の両手首と両足首にガッチリと装着された黒鋼の枷、『縛仙環』。
新幹線での地獄の空気椅子を終え、有馬温泉での面会中は仙気を極限まで抑え込むことで重力発現をどうにか誤魔化していたが、再び外へ出た瞬間、ドレイクから「周りの人間に怪しまれるな、なんでもないように振る舞え」という理不尽すぎる無言の圧力がかかっていた。
少しでも気を抜けば、彼女が踏み出したアスファルトは蜘蛛の巣状に陥没し、京都の歴史ある美しい景観を物理的に破壊してしまう。
常に上向きの反発力を丹田から練り上げ続け、足の裏から地面へ伝わる衝撃をミリ単位で相殺しなければならない結羽にとって、ただの一歩を踏み出して歩くという行為すら、果てしない苦行であった。
「さて、と。観光もいいが、まずは野暮用を済ませちまおうぜ。暑くて叶わねえ」
派手なアロハシャツに身を包んだ巨漢のドレイクが、首に巻いたタオルで汗を拭いながら車を降りた。
彼らがまず向かったのは、京都市左京区に位置する古刹、『真如堂』の境内である。
緑豊かな木立に囲まれた静寂の中、本堂の裏手にひっそりと佇む『鎌倉地蔵』。
その地蔵の足元、あるいはその周辺の地脈にこそ、彼らが追う『九尾の因果』――アストライアの光華王朝が遺した広域洗脳ネットワークの発信装置となる『殺生石の破片』が深く封じられているという。
『――スキャンを開始します。……なるほど、極めて微弱ですが、確かに北関東の那須へと繋がる霊子の術式を確認しました。とはいえ、こちらの破片からではダンジョンへと中継できるほどの出力はありませんが……暗号化のパターンとしては、十分なサンプルになります』
ふゆが掲げたスマートフォンの画面に、幾何学的な光華文字の羅列と、複雑に絡み合う地脈の魔力波形が青白いホログラムとなって空間に浮かび上がる。
黄龍の分体が、地蔵の周辺から発せられている見えない電波のようなものを的確に捕捉していた。
「ふゆ、どうだ? こいつのハッキング、いけそうか……?」
結羽が足の震えを必死に堪え、重い足を引きずりながら覗き込む。
「うんっ! 黄龍先生と一緒に、この術式の構造を逆算してシミュレーションしてるんだけど……ハッキング自体は、発信の出力を抑え込んじゃえばできないことはないかな? ただ、ここの破片が微弱に発信していることからもわかるように、全国に破片とか分体を残されちゃうと、全部潰すのがすっごく面倒だね!」
「カッカッカ! 違いねえ。だが、これで那須に巣食ってるキツネ野郎の『周波数』は完全に特定できたってわけだ。大元を乗っ取るための最高の手土産になったぜ。本体をぶっ叩いて壊す。そんで欠片も逃がさねえようにする。俺たちによく似合う簡単な仕事だぜ」
ドレイクが満足げに牙を剥いて笑い、くわえたタバコに火を点けた。
「よし、野暮用はこれで終わりだ。……彩斗美嬢ちゃん、手配は抜かりねえな?」
「ええ、もちろんよ。最高の席を確保してあるわ。……結羽さん、ふゆちゃん、お疲れ様。ここからは大人の時間よ」
彩斗美が、上品な日傘を優雅に傾けながら涼やかな笑みを浮かべる。
調査を終えた彼らが向かったのは、京都の夏の風物詩である『納涼床』だった。
◆◆◆
夕暮れ時。
祇園四条の近く、鴨川の西岸にずらりと並ぶ料亭群。
その中でもひと際格式高い老舗料亭が、彩斗美が彼らの祝勝の宴のために予約した舞台だった。
川のせせらぎの上に張り出すように組まれた木組みの床。夕涼みの心地よい風が吹き抜け、暮れゆく川面には提灯の温かい灯りが揺れている。
だが、その極上の癒やし空間へと辿り着くまでの道程は、結羽にとって文字通りの死線だった。
「……す、すみません……っ、通ります……ッ! ちょっと、すいませんッ!」
夏の観光シーズン真っ只中。
四条大橋周辺の人混みは、まるで休日の満員電車のようなすさまじい人口密度を誇っていた。
見つめ合って歩く浴衣姿のカップル、急に立ち止まってカメラを構える外国人観光客、人混みの隙間を縫って無軌道にはしゃぐ子どもたち。
その中を、両手足に『縛仙環』という超重力の爆弾を抱えた結羽が歩く。
(ぶつかっちゃダメ……! 絶対に、誰にもぶつかっちゃダメ……ッ!)
今の結羽の身体は、仙気を吸い込んだ黒鋼の異常な質量によって、小型のダンプカー並みの重さを有している。
もし、歩きスマホをしている観光客がうっかり彼女の肩にぶつかろうものなら、その観光客の肩の骨が粉々に砕け散り、最悪の場合は命に関わる大惨事になる。
結羽は、ただでさえ重力制御で極限まで精神をすり減らしている中で、さらに周囲三百六十度の空間を完全に把握し、予測不能な人々の動きを先読みして、誰一人として自分に触れさせないための『絶対回避』を展開し続けていた。
右から迫るおばちゃん集団を腰のひねりでかわし、左から飛び出してきた子どもを半歩下がってやり過ごす。ダンジョンの魔獣群のど真ん中を歩く方が、まだ幾分マシなほどの地獄の特訓であった。




