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第12話 牛頭人の角髄薬膳スープと、甘えの誘惑

 野田市内のマンション、結羽の部屋。


 キッチンでは、ドレイクがジャージの袖を捲り上げ、持ち帰ったミノタウロスの角の下処理を始めていた。


 流水で丁寧に洗い流しながら、ナイフの背を使って表面の汚れや不要な組織を綺麗に削り落としていく。


 ただの素材として売り払うならこれで十分だが、今回は用途が違う。


 結羽の妹・ふゆの『霊穴塞ぎ』をこじ開け、未知の恐怖を克服させるための特効薬を作らなければならない。


 綺麗に下処理された一本の角を、アストライアから持ち込んだ修理中の魔導コンロの上に乗せた土鍋へと放り込む。


 たっぷりの水を注ぎ、火にかける。


 グラグラと煮え立つまで時間をかけ、そこへ野田の商店街にある漢方薬局で購入した数種類の生薬――霊脈の巡りを活性化させるためのものを、絶妙な配合で混ぜ合わせていく。


 立ち上る湯気が、徐々に複雑で薬効の強そうな香りを帯びてきた。


「……仕上げだ」


 ドレイクは土鍋の縁に手をかざし、目を閉じた。


 その瞬間、キッチンの空気がピンと張り詰める。


 結羽は少し離れた場所から、息を呑んでその光景を見つめた。


 ただの力任せの魔力放出ではない。


 ドレイクの掌から溢れ出したのは、まるで澄み切った水面のように静かで、一切の淀みがない青白い『気』だった。


「魔力を力任せに注ぐんじゃねえ。淀みを濾し取り、万物をあるべき純粋な姿へと導く。……これが俺の『浄化の仙術』だ」


 青白い仙気が土鍋全体を優しく包み込み、角から溶け出した暴力的で異質な魔獣の魔力を、人間が摂取しても害のない、純粋な生命力へと変換していく。


 数時間後。


 布で丁寧に濾して不純物を取り除いたそれは、琥珀色に美しく輝く『牛頭人の角髄薬膳スープ』として完成した。



 ◆◆◆



 野田市内の総合病院、長期療養病棟の特別個室。


 結羽は、真っ白なベッドの上で眠り続ける妹、ふゆの傍らに座っていた。


 結羽は保温容器から注いだ琥珀色のスープを、小さなスプーンで慎重にすくい上げた。


 まだ熱いスープに、ふー、ふー、と息を吹きかけ、人肌程度に冷ます。


 そして、意識がなく自発的に飲み込むことのできないふゆの小さな唇に、そっとスプーンを押し当てた。


「ふゆ……。お姉ちゃんだよ。お薬、持ってきたからね」


 数滴のスープが、ゆっくりとふゆの口内に流れ込んでいく。


 気管に入らないよう、本当に少しずつ、少しずつ。


 窓際では、ドレイクが腕を組んで静かにその様子を見守り、彼のポケットからは黄龍の宝珠が微かな光を放っている。


『……鑑定します。魔力浸透、確認。ミノタウロスの強大な生命力と特級生薬の効能が、ふゆ殿の体内を巡っています』


 黄龍の静かな実況が、結羽の脳内に直接響く。


『ダンジョンの魔力に当てられ、自己防衛のために塞がっていた霊穴の第一から第三までが、徐々に開通し始めています。……バイタルサイン、向上。脈拍に力強さが戻りました』


 その言葉を裏付けるように、ずっと青白かったふゆの頬に、微かな赤みが差した。


 浅く弱々しかった呼吸が、わずかに深く、力強いものへと変わっている。


「……あ」


 結羽の目から、ポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちた。


 三年間、どんな最先端の魔導医療をもってしてもピクリともしなかった妹の身体が、確かな生命の鼓動を取り戻そうとしているのだ。


「ふゆ……よかった……。本当によかった……っ」


 結羽は妹の手を両手で包み込み、声を殺して泣いた。


 だが、ふゆはまだ目を開けない。


 呼吸は安定したが、依然として深い眠りの中にある。


『……喜ぶには、まだ早すぎますぞ、結羽殿』


 黄龍の冷徹な声が、結羽の涙を遮った。


『長く塞がっていたため、たった一回の投薬では完全に霊穴をこじ開けるには至りません。それに普通の生薬ではやはり効き目が悪いようです。完全に目を覚まさせるには、何度もあの強大な生命力を与え、身体に擬似的な『克服』のプロセスを繰り返させる必要があります』


「つまり、あの牛っころがリポップするたびに狩りに行かなきゃならねえってことだ」


 ドレイクが、窓に寄りかかったまま低い声で付け加えた。


 何度も、あのミノタウロスを。


 結羽は、自分の震える手を見つめた。


 今日、自分はあの怪物に手も足も出なかった。


 恨みと怒りで突撃し、呆気なく吹き飛ばされた。


 今の自分に、あの深層のボスを周回して狩り続ける力などない。


『光華王朝時代では、このような場合、明確な理屈が存在しました』


 黄龍の宝珠が、淡い光を部屋に投げかけながら語りかける。


『本人が恐怖の対象を打倒できない場合は縁者が。それすらも叶わない場合は、力ある武侠と金銭で義兄弟の契りを結び、代理として打倒したものです。……結羽さんと師父は、召喚者と従魔の関係であり、師弟の関係。縁がないわけではありません。少なくとも金銭で契った義兄弟などよりはよっぽど濃い縁です』


 黄龍は、論理的で残酷なほどに甘美な提案をした。


『ですから、師父がこのまま深層で素材を集め、霊薬を作り続けるのも確実な一つの道です。……どうなさいますか、結羽殿?』


 究極の「甘え」の提示だった。


 目の前には、ミノタウロスなど赤子のようにひねり潰せる規格外の火龍がいる。


 彼に任せておけば、結羽が傷つくことなく、ふゆは確実に救われる。


 病室に、重苦しい沈黙が降りた。


 結羽は、ベッドで眠る妹の、かすかに温かくなった小さな手を両手で包み込んだ。


 安全な道があるのに、わざわざ危険を冒す必要がどこにある?


 だが、その安全な毛布に包まろうとした思考を、結羽自身の心の中にあるもう一つの感情が激しく拒絶した。


(……それで、ふゆが目を覚ましたとして。その後は?)


 もし、両親がダンジョンのさらに深い深淵に囚われているのだとしたら。


 もし、おやっさんがアストライアに帰る方法を見つけて、いなくなってしまったら。


 結局、また誰かの後ろに隠れて、怯えるだけの「使えない荷物持ち」に戻るしかない。


 自分の命の価値を他人に決められ、あっさりと切り捨てられる惨めさ。


 そんなの、絶対に嫌だ。


 結羽は大きく深呼吸をして立ち上がり、窓際で黙って見守っているドレイクの方へと真っ直ぐに向き直った。


「……黄龍さん。提案してくれて、ありがとうございます。でも、おやっさんには頼みません」


 結羽の声は、わずかに震えていた。


 だが、その瞳に迷いはなかった。


「わたしは弱いです。今日だって、おやっさんに助けてもらわなかったら死んでました。……でも、だからこそ、逃げたくないんです」


 結羽は、自らの両手をギュッと固く握りしめた。


「わたしは、強くなりたい。誰の足手まといにもならず、ふゆを守り抜けるだけの力が欲しい。……だから、あの牛っころは、わたしの手で倒します。何度弾き飛ばされても、絶対にわたしの力で、ふゆの薬の材料を毟り取ってきます!」


 それは、システムに愛されなかった少女が、自らの意志で『戦士』としての道を選び取った、力強い宣言だった。


 その言葉を聞いた瞬間。


 ドレイクの強面が、ニヤリと獰猛に歪んだ。


「……聞いたか、黄龍。こいつはただの石ころじゃねえ。珠だ。磨けば光る、極上の原石だ」


『ええ、師父。私のスキャン結果に狂いはありませんでした。彼女の魂の輝きは、光華王朝の若武者たちにも決して引けを取りません』


 ドレイクは壁から背中を離し、結羽の前に歩み寄ると、その小柄な頭に大きな手をポンと置いた。


「よく言った、結羽。てめえの力で運命を切り拓くってんなら、俺が持てるすべての理を叩き込んでやる。……だがな、その覚悟を本物にするために、一つだけ『儀式』をやらなきゃならねえな」


「儀式、ですか?」


「ああ。お前さんの視界の端でチラチラとうるせえ、その『ステータスボード』とやらを、一旦完全に捨ててもらうぜ」


 結羽は目を見開いた。


 ステータスボードは自身の能力を数値化し、成長を実感するための絶対的な命綱だ。


「いいか、結羽。お前さんはこれまで、自分のレベルやスキルという『数値の壁』に怯えすぎていた。牛っころを相手に頭が真っ白になって無策で突っ込んじまったのは、感情に飲まれたからでも、相手の殺気に当てられたからだけでもねえ。自分はレベル1のハズレ枠で、相手は深層のボスだという、頭の中の『数字の比較』に負けたからだ。それは黄龍が一時的にステータスボードとやらを消した程度じゃ抜けねえ、お前さんを弱者側に縫い付ける楔だ」


 ドレイクの言葉は、現代ダンジョン探索者の常識を根本から否定するものだった。


「俺が教えるのは、魔法遊びじゃない。相手の力を利用し、理を突いてねじ伏せる本物の武術だ。数字の比較なんか忘れて、お前さん自身の筋肉の悲鳴と、骨の軋みに耳を傾けろ」


 ドレイクが顎でしゃくると、黄龍の宝珠がフワリと宙に浮いた。


『結羽さん。システムによる視覚情報のオーバーレイ……ステータスボードは、私が完全に遮断します。……よろしいですね?』


「……はい!」


 結羽は力強く頷いた。


 もう、補助輪は必要ない。


『システム、パッシブ表示を強制オフに移行します。情報の非表示化、完了』


 黄龍の風雅な念話と共に、結羽の視界の端に常に存在していた半透明のウィンドウが、完全にブラックアウトした。


 レベル。


 体力、筋力、敏捷性。


 HP、MP。


 すべてが消え去った。


 代わりに彼女の身体を包み込んだのは、数字の壁から解放された、信じられないほどの清々しさと、不思議な万能感だった。


「今日は帰ってしっかり休むぞ。そんで明日から、あの牛っころを一人で解体できるようになるための、地獄のダンジョン周回ツアーの始まりだ。覚悟しておけよ、結羽」


「望むところです……!!」


 ステータスという枠を外れた彼女が、己の肉体と『理』だけを武器に理不尽を叩き割るための、真の修行がいよいよ本格的に幕を開けようとしていた。

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