第101話 孵化室の蹂躙と、深淵へのゲート(前編)
千葉県、野田ダンジョン深層。
かつて結羽が『青銀の翼』というギルドの身勝手なメンバーたちに荷物持ちとして酷使され、最終的にモンスターパレードの囮として絶望的な暗闇の中に置き去りにされた、因縁の場所。
その『ボス部屋』と呼ばれる巨大な石室に足を踏み入れた新生『よろず屋パーティー』の四人は、周囲の空気がかつてとは決定的に異なっていることに気づいていた。
先ほど、身の丈三メートルを超える分厚い筋肉と剛毛に覆われた牛頭の怪物――深層の主たるミノタウロスを、結羽はたったの二撃であっさりと討伐してのけた。
だが、かつて彼女を文字通りの地獄の底へと引きずり込んだ『強制転移トラップ』は、いつまで経っても発動する気配を見せなかったのだ。
「……おやっさん。前みたいに、転移の魔法陣が光りません」
結羽は、床に転がった深層の中級魔石と立派な角を拾い上げながら、首を傾げた。
かつて結羽が未知の合金で武装した『機人ミノタウロス』を倒した直後、彼女はこの石室の床に突如として現れた魔法陣によって、問答無用でさらに奥深くの特殊座標へと転移させられた。
しかし今回は、石室の冷たい石畳には何の異変も起きていなかった。
道中の魔獣もごく普通のものであり、機人化された個体は一切現れなかったのだ。
「……機人化した牛っころが出たことといい、この転移トラップといい、なにがトリガーになっているんだかわかったもんじゃねえな。黄龍、解析できるか?」
ドレイクが、周囲の淀んだ魔力残滓を確認しながら低い声で呟き、ポケットの中のタバコを取り出して火を点けながら、宝珠へと問いかけた。
『発動条件の残滓は見て取れますが、少々厄介ですね。この部屋にランダムで現出する機人化ミノタウロスの打倒こそが、強制転移トラップへの発動条件なのは間違いないでしょう』
黄龍の冷静な解析結果が、ふゆのスマートフォンを通じて響く。
「チッ、姑息な真似しやがって。つまり、あの機械牛を『当たり』として引かない限り、正規のルートじゃ奥の孵化室には行けねえってことか」
ドレイクが忌々しげに紫煙を吐き出す。
まるで、かつて結羽に牙を剥いた異常なダンジョンのシステムが、今度は息を潜めて彼らの侵入を拒絶しているかのようだった。
「……正規ルートが難しいなら、機人化したミノタウロスが出るまで周回ですか?」
結羽の問いかけに、最後尾でUIゴーグルを展開し、戦況を俯瞰していたふゆが、トコトコと石室の中央へと歩み出た。
彼女の透明感のある瞳の奥で、『魔力視』の淡い光が知的に瞬く。
「ううん、大丈夫だよお姉ちゃん。わたしが直接こじ開けちゃうね」
ふゆは石畳の床を見つめながら、自信満々に小さな胸を張った。
「この床の石畳の下に、すごく複雑な魔法陣の魔力回路が隠れてる。アストライアの大戦期に光華王朝で使われていた文字で構成されているね。お姉ちゃんが前に飛ばされたの、絶対にこれだよ」
ふゆが指差した床の座標を、黄龍の宝珠がスキャンして同意する。
『ふゆ殿の仰る通りです。魔力回路自体は生きていますが、先ほど申し上げた通り、自動起動のトリガーがミノタウロスとの交戦データと連動してオフになっている状態です。外部から正規のパスコードを入力しなければ、ゲートは開きません』
「回路の構造と魔力の流れは完全に視えてるから、わたしが外部から逆位相の魔力を流し込んで、強制的にトラップを起動させてあげる!」
ふゆが自身の身の丈ほどもある杖を握り直す。
だが、ドレイクはそこでタバコを咥えたまま言葉を区切り、少しだけ心配そうな――神話の火龍らしからぬ、過保護な父親のような視線をふゆへと向けた。
「……それじゃあ、その『孵化室』に行くとするか。あー……だがな、ふゆ」
「ん?」
「彩斗美嬢ちゃんや結羽はともかく、お前さんにゃ結構気持ち悪ぃような場所だぞ。血と泥と肉の匂いが充満してる、文字通りのバケモノの生産工場だ。……覚悟はいいか?」
普段は「獅子は我が子を千尋の谷に突き落とす」を地で行くスパルタなドレイクだが、凄惨な現場にまだ慣れきっていない、病み上がりから復帰して間もない最年少の妹分に対しては、どうしても保護者としての甘さが出てしまう。
だが、ふゆはフルフルと力強く首を横に振った。
「平気だよ、おやっさん! わたしだって、よろず屋パーティーの一員だもん。それに、お姉ちゃんたちがいれば、どんな場所だって全然怖くない!」
その健気で力強い返答に、彩斗美も優雅に優しく微笑み、結羽も背中の鈍い銀光を放つ如意棍棒を構えて深く頷く。
「カッカッカ! 違いねえ。よし、ふゆ、やっちまえ!」
「うんっ! いくよ!」
ふゆが自身の杖の先端を床の石畳に突き立て、高度に練り上げられた清浄な仙気と魔力を一気に流し込む。
ピキッ、と分厚い防弾ガラスにヒビが入るような鋭い音と共に、結羽たちの足元が赤黒く禍々しい光を放ち始めた。
複雑な幾何学模様と光華文字で構成された巨大な魔法陣が展開され、強烈な閃光が四人の視界を白く染め上げる。
直後、内臓が裏返るような激しい浮遊感が全身を襲った。
次に結羽たちが目を開けた時、足元にあったはずの冷たく硬い石畳は、ブヨブヨとした不気味な肉の絨毯へと変わっていた。
「……なんて、悪趣味な場所なの……」
彩斗美が、即座に腰の蛇腹剣の柄に手をかけながら、嫌悪感も露わに美しい顔をしかめる。
薄暗い空間を、赤黒く脈動する不気味な光が照らし出している。
見渡す限りの広大な洞窟。
しかし、その壁面や天井には岩肌など一切見えない。
びっしりと張り付いているのは、人間の背丈を優に超える、巨大な肉の『繭』だった。
ドクン、ドクンと、まるで巨大な心臓の中に閉じ込められたかのような不快な重低音が、空間全体に響き渡っている。
むせ返るような血の匂いと、羊水に似た生臭い臭気が充満していた。
こここそが、ダンジョンのシステムによって隠蔽された特殊座標――ボスモンスターを延々と補充し続けるための『孵化室』だ。
かつて結羽は、この地獄のような場所にたった一人で落とされた。
暗闇と悪臭の中で、得体の知れない恐怖に震え、そして生まれたばかりの大量の魔獣に蹂躙されかけた。
抗う術を持たず、左腕を無惨にへし折られ、もはや死を待つしかなかった、絶対的な絶望の記憶。
だが、今の結羽の瞳に、恐怖の色は微塵もなかった。
あるのは、静かな闘志と、ダンジョンという狂ったシステムに対する冷徹な怒りだけだ。




