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蒼次郎はのれんがかかる半個室の居酒屋にいた。掘りごたつタイプの狭い個室の前は廊下で、足音と賑やかな話声が聞こえる。
チェーン店の居酒屋に蒼次郎は待ち合わせだと言って店に入った。当の待ち人が来るとは限らない。それでもずっと待つ覚悟で、分厚い海外ミステリー小説を持ってきた。
たんぽぽはここに来るのだろうか。
一時間ほど前にたんぽぽにメッセージを送った。簡潔に「俺のことが本当に好きなら、いますぐ会いに来い」という文章とともに居酒屋のURLを貼り付けた。それからタクシーに飛び乗って居酒屋に行き、待ち合わせだと店内に入った。
たんぽぽが蒼次郎からのメッセージを読んだのかわからないし、配信者すみれのアカウントから送ったが信じてくれるかわからない。蒼次郎がたんぽぽの立場なら、なりすましが自分にメッセージを送ってきたと思う。
たんぽぽは来るかどうかわからない。でも少しでもたんぽぽが来る可能性があるいま、自分は待つという選択肢を選ぶ。
ずっと拗らせてきた恋を終わりにしたいのは、蒼次郎のほうなのかもしれない。
ウーロン茶が入ったグラスに口をつけるとほぼ氷水だった。いつのまにか一杯、飲み切っていた。
テーブルに置いたスマートホンを気にしないようにしながら、小説を読む。海外ミステリー小説だけあって登場人物が多く、仕方ないので鞄からメモを取り出して名前と特徴を書いていく。こうして読みやすくなったのに、雑念が渦巻いて読み進められない。
とうとう蒼次郎は本を鞄にしまった。
備え付けのタブレットで追加のウーロン茶を頼み、あー、と小さく声を出した。テーブルの上に突っ伏す。ネガティブなことばかり考えてしまい、心につられたのか体が重い。
――たんぽぽ。
そう名前を呟いたときだった。失礼しまーす、と明るい声が聞こえた。
「お連れの方がいらっしゃいましたあ~」
「え」
のれんを開けると、店員が「ご注文のウーロン茶です」と笑ってテーブルの上に置き、一礼して去って行った。残ったのは廊下に正座する若い男だった。
黒髪で地味な印象だが、眉の形はよく、やや垂れ目の茶色の瞳は優しそうで、よく見ればすっきりと整った顔立ちだった。
白いシャツと紺色のズボン姿という出で立ちも相まって、第一印象が地味過ぎて整った顔立ちと思われない。
損だな、と思い、ああ、と呟く。
「たんぽぽだ……。解釈一致」
地味だがよく見ればイケメン。確かにたんぽぽだったら、解釈一致。
たんぽぽ、という言葉に若い男の肩がびくりと跳ねた。小刻みに頭が上下に揺れる。頬の筋肉が硬く、緊張しているのが全身から伝わってくる。
「た、たんぽぽ、です」
「そんな打ち首される前の武士みたいな顔、すんなよ」
そう言い終え、蒼次郎は笑った。困ったように笑う目の前の男はたんぽぽだ。そう確信したのは目の前の男の口から出たその声が動画で聞いたたんぽぽの声とよく似ていたし、SNSの書き込みから滲む真面目さがこの男からも伝わってきた。
個室に入って座るよう促せば、たんぽぽは蒼次郎の向かい側に座った。たんぽぽは緊張し過ぎて言葉が出ないのか、せわしなく片手で腕を触っている。
そんなたんぽぽの緊張を和らげようと蒼次郎はウーロン茶と枝豆を追加注文した。お互い黙り、それでもお互いを見ているのは妙を通り越して面白いと感じる。まるで猫が縄張りで見知らぬ猫と出会ったみたいだ。
ウーロン茶と枝豆が運ばれてきて、蒼次郎はたんぽぽの前にそれらを置いた。
「食べる気力ないかもだけど、食べて」
「は、はい」
たんぽぽは枝豆を数個食べ、ウーロン茶を酒でも呷るように飲んだ後、蒼次郎を見る。
「本当にすみれさんがいると思いませんでした」
「うん。俺もたんぽぽが来るとは思わなかった。……来てほしかったよ。ほんとに。でも、たんぽぽが来るって想像つかなかった」
四年間その存在を知っていたが「会えない」のが普通だった、たんぽぽ。そんな相手に、自分が会えるとは思っていなかった。「会えない」のが当たり前だった。
蒼次郎は姿勢を正し、頭を深く下げた。
「来てくれてありがとう。急にメッセージを送ったのにこんなに早く来てくれるとは思わなかった。いや、さっきも言ったけど、あのメッセージを信じて、ここに来てくれるとは思わなかった」
蒼次郎は頭を上げ、たんぽぽを見た。たんぽぽはじっとこちらを見ている。
「急いで来てくれた。それって、俺に恋をしているってことでいいんだな、たんぽぽ」
念を押すように名を呼べば、たんぽぽは深く頷く。じっとこちらを見るたんぽぽから目を逸らせない。その目から本気が伝わる。
「本気ですみれさんのことが好きだから、来ました」
その言葉を聞いて、蒼次郎はゆっくりまばたきをした。星が見えないと思った夜に空を見上げて、星を一つだけ見つけた。そんな気持ちになる。
「俺は、たんぽぽのことをよく知らない。たんぽぽはお行儀のいい、ネットリテラシーがきちんとした内容だけSNSに投稿するから。それでも俺はたんぽぽを好きになったよ。俺を応援してくれた、たんぽぽを。……俺の恋を信じてくれるか、たんぽぽ」
好き、という言葉にたんぽぽは目を見開いた。ぱちぱちとまばたきをし、俯き、深く息を吐いた。最後の蒼次郎からの問いかけを聞いたたんぽぽは、顔を上げて深く頷く。
「正直、信じられません。でも、はい、信じます。俺も、すみれさんのことをよく知りません。動画で教えてくれるすみれさんは誰もが知っていいすみれさんだから。俺だけが知っているすみれさんじゃない。俺たちはお互いのことを知らない。でも、俺は、それでもすみれさんを好きになりました」
たんぽぽが躊躇い、そっと手を伸ばした。その手の甲には盛り上がった傷跡があった。縫ったほどの傷を見る。ああ、たんぽぽだ。
「すみれさんのことが好きです。でも自分の理想と妄想を押し付けて好きになっているだけかもしれません。それでも俺と付き合ってくれますか」
「付き合います」
蒼次郎の即答にたんぽぽは驚いた顔をしたあと、笑った。柔らかくて明るい笑顔に胸がきゅ、となって、これは胸キュンだと気づく。
「頭、ふわふわします。ああもう、嬉しいし驚くし」
たんぽぽの言葉に俺も、と蒼次郎は微笑んだ。
「たんぽぽ。俺たち、お互いのことをよく知らないのに、お互いを好きになった関係だもんな。二人で時間をかけて、幻滅して、新しいところを好きになっていこうよ」
「幻滅ですか。すごいことを言いますね。でも、いいですね。幻滅して新しいところを好きになっていこうって、これからお互いを知っていこうってことですもんね」
「俺は動画で出していたすみれの十倍は面倒な男だぞ。それは覚悟しろよ」
たんぽぽが蒼次郎の右手をそっと両手で握った。
「面倒でもいいです。あなたがずっと好きだったから」
噛みしめるような物言いに、そうか、と蒼次郎は頷いた。面倒でもいいと受け入れてくれたことがじわりじわりと嬉しい。
蒼次郎はたんぽぽの手を放した。名残惜しい。それでも、いま手を放さないと話もまともにできない気がする。蒼次郎は手帳とボールペンを取り出し、自身の名前を書く。
「俺の本名は西蒼次郎。たんぽぽの名前、教えてくれる?」
はいと返事をして手帳とボールペンを受け取ったたんぽぽは「池辺直弘」と書いた。丁寧に「いけべなおひろ」とふりがなまでふってくれる。
「池辺直弘です」
ようやくその名前を知れたことが嬉しい。池辺直弘、池辺直弘ね。そう呟く。たんぽぽではなく、直弘。名前を知ったことで目の前の男の輪郭がはっきりしたように思えた。
「蒼次郎さんとお呼びしてもよろしいですか」
「いいよ。俺はたんぽぽじゃなく、直弘って呼ぶ」
試しに直弘、と呼べば、直弘が嬉しそうに笑う。
「名前、呼ばれるの、すごく嬉しいです」
ふっと自分の体から力が抜ける。つい先程までたんぽぽが来ないことを覚悟していたのに、いまはたんぽぽ――直弘が目の前にいる。直弘は夢のようだと言ったが、蒼次郎も都合のいい夢を見ているように思えてならない。
直弘の背が伸び、緊張した声で言う。
「連絡先を交換しても、よろしいでしょうか。その、プライベート用の……」
「うん、交換しよう」
スマートホンを取り出し、連絡先を交換する。直弘がスマートホンを見つめ、言った。
「感動してます」
「俺も。恋人って感じがして」
蒼次郎の言葉に直弘がびくりと肩を跳ねさせ、それから口元が緩んだ。笑みは徐々に広がり、嬉しくてたまらないという顔をする。それがとてもかわいい。
「これから、恋人としてよろしくお願いします。蒼次郎さん」
「こちらこそ、よろしくお願いします。直弘」
二人で頭を下げて、顔を上げる。顔を見合わせると自然と笑みがこぼれる。
――ああ、好きだなあ。
何か特別なことを言われたわけではない。それなのに好きだと思うのは、これが紛れもなく恋だからだ。




