10
直弘が「考えます」と言ってくれてから一週間後、直弘が蒼次郎の部屋にやってきた。朝の九時過ぎ、直弘はハローワークへ行く前に蒼次郎の家に来た。
直弘と並んでソファに座ると、直弘が鞄のなかから青いリボンのついた袋を差し出す。
「これ、受け取ってください」
受け取った袋は軽い。突然のプレゼントだが嬉しく、開けて中身を出してもいいかと聞くと直弘にどうぞと言われた。早速リボンを外し、袋を開けて中身を取り出す。
「わ、かわいい。羊ちゃんだ」
袋の中身は白い羊のぬいぐるみだった。くりっとした黒い目がかわいい。ひっくり返せば裏にチャックがついているのでちょっとした小物入れにもなるのだろう。蒼次郎が何気なくチャックを開けようとすると、直弘が蒼次郎の手の上にそっと手を置いて止めた。
「いまは、開けないでください」
「なんで?」
「これはお守りなんです」
お守り、と反復する。羊のぬいぐるみを見る。これがお守り。どう見てもかわいいぬいぐるみなのだが、どういうことだろうか。
蒼次郎の怪訝そうな顔を見た直弘はちょっと待ってください、と言い、自身のトートバッグから黒い羊のぬいぐるみを取り出した。あ、と呟く。蒼次郎の手の中にあるものと色違いのぬいぐるみだ。
「俺も色違いで同じぬいぐるみを持っています。このぬいぐるみはお守りで、対のぬいぐるみを持っていることで効果を発揮します」
「お守り……。効果を発揮……」
段々とスピリチュアルな話になってきた。普段だったら友人知人がこんな話をし出したら胡散臭いと笑い飛ばすか適当に流すだけだが、惚れた弱みか、恋人の直弘の話なら素直に聞こうと思う。惚れた弱みというより、恋をして盲目になっているのかもしれない。
「わかった。俺、なんかしたほうがいいことある?」
深く問わず直弘の言葉を飲み込んだ蒼次郎を意外そうな顔で見た直弘は深く頷く。
「このお守りを受け入れてくれてありがとうございます。蒼次郎さんがどうしても寂しいとき、辛いとき、このぬいぐるみのチャックを開けて中を見てください。そのときまでは中を見ないで。それがお守りです。俺は黒い羊を常に持ち歩きますが、蒼次郎さんは無理して持ち歩かなくていいですから」
直弘が蒼次郎の前で黒い羊と白い羊のぬいぐるみを並べた。その姿は確かに「対」という言葉がしっくりくる。
「これが、蒼次郎さんの不安が減るためにできる俺の精一杯です。前回会った時、不安だと言っていたので」
直弘の目を見ていると、どうやらそこまでスピリチュアルな話ではなさそうだなと思う。中身は何か知らないが、蒼次郎が前回、離れることが不安だと口にしたから「お揃いの物を持つ」ことを提案してくれたのだろう。子供じみてはいるが、同じものを持つ連帯感で多少、不安は減るかもしれない。
直弘が蒼次郎の不安な気持ちを蔑ろにせず、向き合ってくれ、考えて行動に移してくれた。そのことが嬉しい。
「俺が不安だったから、考えてくれたんだな。直弘、ありがとう」
蒼次郎の言葉に直弘はほっとしたような笑みを浮かべた。その笑みを見ると、蒼次郎もなんだか気持ちが楽になる。
「いえ。俺ができるのはこれくらいですから」
「これくらいって言うなよ。考えて、ぬいぐるみを用意してくれたこと、すごく嬉しい」
そう言うと直弘は表情を柔らかくした。「それと」と言った直弘がタブレットを差し出す。
「俺のタブレット、蒼次郎さんの家に置きっぱなしにしてもいいですか」
「別に構わないけど」
直弘が最近、安くなっていたタブレットを買ったことは知っていた。手元に無くてもいいのかと聞けば、蒼次郎の家で使うためのものだからいいとのことだった。
「ここで料理を作るとき、レシピや料理動画を見るときにタブレットがあると便利だと思いまして」
「そっかあ」
直弘は蒼次郎のために食事の作り置きをしてくれる。それは強制しているわけではなく、いつでもやめていいと言ったのだが、直弘は「苦ではないので」と笑って作ってくれる。
蒼次郎の家で料理を作るために買ったと教えられ、なんだか胸の奥が温かい。自分の頬が緩んでいることに気づいたと同時に、直弘に「かわいい」と微笑まれる。
「か、かわいいのはお前だ」
つい本音が漏れてしまう。俺はかわいくないです、と笑う目の前の男が愛しい。好き、と呟いてその手を取り、指先にキスを落とす。ばちりと直弘と目が合う。直弘は無表情で、怒っているのだろうかとはらはらしたら手を掴まれて額にキスを落とされた。
「あまり、俺を挑発しないで、蒼次郎さん。抑えが利かなくなります」
低い声に背中が甘く痺れる。色気と獰猛さがにじみ出るその声が好きだと思う。蒼次郎はにいっと悪戯っぽく笑った。
「抑えなくていいけど。朝から俺の寝室に行っちゃう?」
軽い気持ちでそう言ったのに、直弘は先ほどの柔らかい表情から一転して無表情になった。体に力が入ったことがわかる。直弘の目を見れば、硬い目からは何一つ読み取れない。
――やっちゃった。やっぱり、直弘は俺と体の関係を持ちたくないんだ。
うぬぼれと言ってもいいくらい、蒼次郎は直弘の自分への気持ちを少しも疑っていない。ことあるごとに蒼次郎にかわいいと言う男は無名だった自分を応援し続けてくれ、嘘か本当かわからなかったであろうメッセージを信じてくれて、会いに来てくれた。そんな直弘が、自分のことを好きではないと思わない。
だが、セックスができるできないはまた別の問題だと思う。直弘にどういった事情があるかわからないが、直弘がセックスをしたくないなら、無理強いをする気はない。
――でも、どこかできちんと、セックスについて話さないと。
そう思うのに、勇気が出ない。直弘を傷つけたら、と思うと同時に、直弘に嫌われるそうで言いたくない気持ちが強い。
嫌われたくない。その気持ちが、対話しようという気持ちをゆっくり潰していく。
直弘の腕をそっと触る。直弘が眠りから覚めたようにびくりと体を揺らした。
「ごめん、直弘にとって嫌な冗談だったね」
「い、嫌ではないです。あの、俺は蒼次郎さんが好きです。だから、本当は蒼次郎さんが寝室に誘ってくれたのは本当に嬉しい。ですが、俺は」
直弘が俯いた。
「今は、無理です」
――今が無理って言うことは、そのうち無理じゃなくなるってこと?
そう疑問に思ったが、目の前の直弘は酷く申し訳なさそうで、なんだかこちらが困らせているようで申し訳ない気持ちになってきた。辛そうな直弘を労わるように、なだめるように直弘に体をくっつける。直弘が我に返ったように目を見開き、蒼次郎を見た。
「蒼次郎さん、俺、あなたが好きです。ほんとのほんとに、好きです。でも今の状態ではあなたと一緒にベッドに行けない。信じてほしいです、好きだけどあなたのことを抱けないんです」
好きだけどあなたのことを抱けない、と言う言葉を聞いて反射的にがっかりしたが、すぐに思い直した。好きだけど、と言った。直弘が好きだと言ってくれたことが嬉しい。嬉しさがこみ上げたと同時に、それでも抱けない理由が気になって仕方ない。
本当は聞かない方がいいのかもしれないと思う。お守りと言ってぬいぐるみを渡したことを受け入れたように、さらりと「そうなんだ」と今も頷いたほうがいいのだろう。
そう思うが、聞きたい。直弘は自分の気持ちを伝えてくれた。黙っていればなんとかやり過ごせたかもしれないことを、きちんと言ってくれた。
「理由が聞きたい。興味本位で聞いているわけじゃなくて、理由を聞いて、俺も考えたい」
「り、理由」
直弘の目がわかりやすく数秒泳ぎ、意を決したように蒼次郎の目を見る。
「すみません。いまは言えません。正しくは言う勇気が出ない、です」
直弘は真面目な顔で言う。その顔を見ていたら、なんだか気が緩んでくる。そっか、そうだよなと思う。直弘は嘘をついていない、いまは言えないだけ。直弘は真面目で、自分が言える範囲で答えてくれる。そんな直弘から無理矢理言葉を引き出したいとは思わない。
蒼次郎は頷く。
「いいよ、直弘。直弘がセックスできない理由については、もう少し待つ」
「あ、ありがとう、ございます」
顔を上げた直弘が蒼次郎を抱き寄せる。蒼次郎の肩口に顔を埋めた直弘が言う。
「俺は、あなたのことが好きです。それだけは信じてください」
「信じる。信じるけど、待つのにも限度はある。俺は直弘とセックスしたい。それはわかってね」
直弘の顔に少しでも嫌悪や拒否があったらどうしよう、と思ったが、顔を上げた直弘の顔にはそれらはなかった。何も読み取れない無表情。その顔を見て、あ、と思った。この顔は、考えているときの顔だろうか。
「直弘。いま、無表情なんだけど、いま何か考えている?」
直弘は驚いたように目を軽く見開き、頷いた。
「よくわかりましたね。俺、考えていると顔が仏像みたいになるんです」
その言葉に思わず噴き出した。仏像。
笑い、直弘の後頭部に手を伸ばし、その頭を撫でる。
「たんぽぽ。俺はお前が好きだからな」
あ、と蒼次郎は笑う。
「ごめん。俺、またたんぽぽって言っちゃった。直弘のこと好きだからな」
言い直した蒼次郎に直弘が笑う。
「好きに呼んでください。俺も、蒼次郎さんのこと、好きです。大切です」
好き、の言葉のあとに大切だと言葉を足してくれたことが嬉しい。
直弘の体にくっつきながら、離れたくねえなあ、と思う。それでも、と思い直した。直弘が自分を思ってぬいぐるみを渡してくれた。だからこれ以上駄々をこねたくない。
しばらく二人抱き合って、直弘と外に出る。直弘はそこまでしなくていいと言ったが、なんだか離れがたくて結局、マンションのエントランスまで直弘を送った。ひらりと手を振って直弘がエントランスの自動ドアをくぐり、出て行く。少し暗いエントランスから、夏の気配を感じる日差しに満ちた明るい外へ出て行った直弘の背中が、なんだか遠く見えた。




