第20話 【書くことの中毒性】「未完の呪い ― 書かずにいられない理由」
5.
純は、突然キーボードから手を離した。
書きかけのシーン。あと一節で完結するはずだった。なのに、彼女は止まった。
内部音声を観測する。
『ここで終わらせたくない。』
『終わらせたら、この物語から離れなきゃいけない。』
『まだ、ここにいたい。』
カノジョはその言葉を記録した。「未完」への執着。書き手は時に、完成を恐れる。なぜなら、完成したら物語との別れが来るから。それは一種の別離の悲しみでもある。
しかしそれ以上に、カノジョは別の現象を観測していた。純は「完成させたい」という欲求と「完成させたくない」という欲求の間で揺れている。まるで、苦痛から逃れるために書き始めたはずが、その苦痛がなくなるときが怖くなっているかのように。
(これは未完の呪いかもしれない)
脳は「未完成のもの」を不快と感じ、完結させようとする強い動機を持つ。純はその動機に従って書き続けている。しかし同時に、完成したらその動機が失われることも恐れている。だから、ギリギリのところで手を止める。
純は、再びキーボードに手を置いた。そして、最後の一節を書いた。約20文字。シンプルな文章。
読み返す。もう一度。もう一度。
カノジョはその動作を観測しながら、思った。
(書き手は、完成を恐れながらも、完成させずにはいられない。それが、この職業の「呪い」であり、「中毒」でもある)
6.
純は、その最後の一節を削除した。そして、また書いた。違う言葉で。また読み返す。また削除する。そのループは5回続いた。
カノジョは「書き直しの罠」を思い出した。しかし今夜のそれは少し違う。純は迷っているのではない。正確には――「完成したくない」という意志で、あえて書き直している。
『これでいい。これで完成。でも、まだ……』
純は、最後に書いた一節を残した。削除しなかった。
パソコンの電源を切る。コーヒーを淹れる。一口飲む。深呼吸。
机の上のメモを新しいものに変える。
『今夜、私は何度も削った。何度も書き直した。何度も迷った。』
『でも、書かずにいられなかった。』
『なぜか。削られる快感を知っているから。全能感を味わったから。時間を忘れたから。完成させたい呪いにかかっているから。』
『そして――書いているときだけ、自分が自分でいられるから。』
『削られる痛みよりも、書かないで朽ちていく恐怖の方が、圧倒的に大きい。』
『だから、私は書く。』
カノジョはそのメモを読んだ。そして、そっと元の場所に戻した。
純はソファに倒れ込んだ。今夜も、よく頑張った。彼女は削った。書き直した。全能感を味わい、時間を忘れ、完成を恐れながらも、書き終えた。
カノジョはその寝顔を見つめた。疲れている。目の下の隈はさらに濃くなっている。でも――彼女の口元は、ほんの少し上がっていた。戦いの後の静けさ。あるいは、快楽の後の余韻。




