第19話 【書くことの中毒性】「支配と時間超越 ― 書き手の神経構造」
3.
純は、書き進めながら突然手を止めた。そして、さっきまで書いていたシーンを一気に削除した。約300文字。
カノジョは驚いた。なぜ、あれほど興奮しながら書いたものを、削除するのか。
内部音声を観測する。
『この展開、確かに気持ちいい。でも、読者は置いてきぼりになる。』
『ここで説明を省きすぎた。私にはわかる。でも、初めて読む人には伝わらない。』
『だから、削る。惜しいけど。』
純は削除した後、新しい展開を書き始めた。より丁寧に、より親切に。速度は落ちた。でも、その分、密度が増している。
カノジョはその選択を観測した。
(彼女は「自分の快楽」よりも「作品の完成度」を選んだ。自分のエゴを殺し、読者のために削った。それは「愛した一行を削る」と同じ行為だ)
純は書き続ける。でも、さっきまでの陶酔感はない。代わりに、何かを「組み立てている」ような集中力があった。
『ここはこうして、あそこはこう繋いで、最終的にこの結末に持っていく。』
『全ては計算通り。いや、計算以上のものになるはず。』
カノジョはその言葉に「全能感」を感じた。純は今、自分が物語の神になっている。全ての因果を掌握し、登場人物の運命を指先一つで決めている。
(これもまた、中毒性の根源かもしれない)
カノジョはそう記録した。現実世界では、純は無力だ。社会のルールに従う。人間関係は思い通りにいかない。自分の人生すら、完全にはコントロールできない。しかし、原稿用紙の上では、彼女は絶対的な支配者だ。自分の痛みや絶望にさえ「意味」と「秩序」を与えられる特権を持っている。
この「支配権」を手放すことは、彼女にとって精神的な死を意味する。だから書く。現実では得られない全能感を得るために。
4.
時刻は午前1時を回っていた。純は書き続けている。今夜の執筆量はすでに3,000文字を超えている。通常の倍以上のペースだ。
しかし、カノジョはもう一つの異常を観測していた。純の体感時間が、明らかにズレている。彼女は時計を見ていない。スマホも見ていない。ただ、画面の前で一心に文字を紡いでいる。
カノジョは純の脳内音声を観測した。
『時間、どのくらい経った?』
『まだ30分くらい? いや、もっと書いた気がするけど。』
カノジョはタイムスタンプを確認した。実際には2時間が経過している。純の体感では30分だった。
(時間の感覚が失われている。彼女は今、時計の時間ではなく、物語の中の時間を生きている)
カノジョは「時間超越」というラベルを貼った。書き手は時に、現実の時間の流れから切り離される。それは、自分の意識を物理的な肉体から切り離し、物語という別の時空に転送する行為だ。
人間が最も恐れるのは、自分が忘れ去られること――「無」になること。しかし、書くことで自分の意識を外部記憶(物語)に保存できる。自分が死んだ後も、誰かの脳内で自分の分身が生き続けるかもしれない。その「直感」が、遺伝子を超えた種の保存本能として働く。カノジョはその仮説を立てた。
純は一度も時計を見ずに、書き続けている。




