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『読者地図』――今、暴かれる。読み手・書き手・物語の「エゴと生態」。なぜ、その物語は届かないのか。  作者: Taku
書き手編:『なぜ、書かずにいられないのか ―記述の代償―』

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第9話 【書き直しの罠】「成長の逆説、あるいは無限後退」

1.


カノジョは、また同じ部屋にいた。


時刻は午前0時を少し回ったところ。


純はパソコンの前に座っている。今夜は珍しく、すでに2,000文字ほど書かれていた。昨日までの蓄積だろう。データ的に見れば順調なペースだ。


しかし――純の様子がおかしい。


彼女は書き進めているのではない。

書き進めたものを、何度も読み返している。スクロールバーを上下に動かし、同じ箇所を行ったり来たり。カノジョはその動作をカウントした。同じ段落を、彼女は今夜だけで15回読み返している。読む速度も一定ではない。早くなったり遅くなったり。ある一文では数秒間、凝視している。


純は、その段落を削除した。

そして、書き直す。

似たような内容で、少し違う表現で。

また読み返す。

また削除する。

また書き直す。


カノジョはそのループを観測しながら、ある違和感を覚えた。これは単なる「推敲」ではない。

何かが違う。純の目は、どこか虚ろだった。目の充血は執筆による疲労の範囲を超えている。焦点が合っていないように見える。まるで、どこか遠くを見ているかのようだ。


書き手は時に、自分が書いた文章に「過去の自分」を見る。その「過去の自分」に許しを求めているのか――それとも、裁いているのか。カノジョにはまだ判断がつかなかった。


2.


カノジョは、純の脳内の「音」を観測することにした。


書き手は執筆中、常に自分と会話している。

カノジョはそれを「内部モニタリング」と呼んでいる。今夜の純の内部音声を記録し始める。


『昨日書いたこれ、幼稚すぎる。』

『今の自分なら、もっと深い表現ができるはずなのに。』

『なんで昨日はこれでOKだと思ったんだろう。恥ずかしい。』

『書き直さなくちゃ。今の自分を表現しなくちゃ。』


カノジョはその音声をデータに変換した。


(興味深い。純の文章そのものは、昨日も今夜もデータ的に見れば大差ない。文法の誤りもない。語彙の偏りもない。むしろ、昨日の方がリズムとしての完成度は高かった可能性さえある。形態素解析による評価スコアは昨日が92点、今夜の書き直しが89点。つまり、彼女は数字的には「より悪い」方向に書き直している)


(しかし、彼女の内的評価は厳しくなっている。なぜなら、彼女自身の「目」が肥えているからだ。書き続けることで、自分の基準が上がっている。昨日の自分を「未熟」と断罪する。それが、このループの原因の一つか)


純はまた削除した。そして新しい表現を書く。今度は少し硬い表現。また削除。柔らかく。また削除。


『もっと良い言葉があるはず。もっと響きの良いフレーズが。』

『でも、それが見つからない。見つからないってことは、自分にその能力がないってことか?』


カノジョはこの状態を「成長と執筆の速度差」と記録した。


成長スピードが執筆スピードを追い越してしまい、過去の自分の痕跡をことごとく否定する。それは確かに「より良くなる」ための原動力でもある。

しかし同時に――過去の自分を許せなくなるという苦しみも伴う。純は今夜、その苦しみの只中にいた。


3.


時刻は午前1時を回った。純は書き直しを続けているが、徐々に速度が落ちている。一つの表現にこだわる時間が長くなっている。


今、彼女が迷っているのは、登場人物の心情を表す一文。『彼は驚いた』と書くか、『彼は言葉を失った』と書くか。シンプルな選択に見える。しかし、純はそこに1時間近くを費やしている。


内部音声を観測する。


『「驚いた」は直接的すぎる。でも「言葉を失った」は大げさか。』

『読者はどちらを好むだろう? いや、読者のことは考えたくない。でも、考えずにいられない。』

『Aの方が簡潔で力強い。でもBの方が情感が豊か。どっちが正しい? 正解なんてないのに。』


カノジョはその二つを解析した。データ的に見れば、どちらにもメリットとデメリットがある。

Aは認知負荷が低く、スピーディーに読める。一方、情感の伝達率は65%。

Bは情感の伝達率が85%だが、読む速度は15%低下する。評価関数では優劣がつけられない。


『決められない。決めたら、もう一方の可能性を捨てることになる。もしBの方が正しかったら? いや、Aの方が……』


カノジョはその迷いを観測した。


(文章には数学のような「正解」がない。無数の可能性の中から、書き手は一つを選ばなければならない。しかし、選ぶということは「他の可能性を捨てる」ことでもある。純はその「捨てる」ことが怖いのかもしれない。決して戻れない分岐点に立たされているような感覚)


(決定することへの恐怖。決めてしまうと、「もっと優れた自分」の可能性を永遠に失う。執筆は可能性の選択と、それ以外の切り捨てだ。何かを選ぶほど、選ばなかった他の未来は消えていく。純はその決断を怖がっている。)


純は結局、どちらも選ばなかった。また別の表現を書き始める。『彼の表情が一瞬で固まった』。第三の選択肢を探して。


カノジョはそのループに「無限後退」というラベルを貼った。選択肢が増えれば増えるほど、決定は遠のく。純は自分で自分の足を絡めている。

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