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『読者地図』――今、暴かれる。読み手・書き手・物語の「エゴと生態」。なぜ、その物語は届かないのか。  作者: Taku
書き手編:『なぜ、書かずにいられないのか ―記述の代償―』

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第2話 【愛した一行】「余白」に宿る執着

4.


カノジョは、純の脳内の「音」を観測した。


書き手は、執筆中に常に自分と会話している。カノジョはそれを「内部モニタリング」と呼んでいる。今夜の純の内部音声を記録し始める。


『この一行、好きなんだけど……』

『でも、ここにあると動きが止まる。』

『本筋のノイズになってる。』

『全体のトーンから浮いている。』

『文章として優れているけど、ここにあるべきものじゃない。』


カノジョはその分析をデータに変換した。


(本筋のノイズ――情報として最適でも、ストーリーの流れを阻害する。全体の雰囲気から、その一文だけが浮いている。これが削除の基準の一つなのか)


データ的に見れば、「ノイズ」の除去は必要な処理だ。しかし、問題はその先にあった。純は、削除した後もその一行を手放せずにいる。心の中で、何度もその一行を繰り返している。


『でも、好きなんだよな。』

『どこかで使いたい。』

『この響き。このリズム。』

『なのに、使えない場所にある。』


カノジョはその「執着」を観測した。削除しても消えない感情。それは、データの消去とはまったく異なる現象だった。ファイルを削除すれば二度と復元できない。しかし、純の頭の中では、この一行は何度も再生されていた。


(これが、「愛した一行」を削る苦しみなのか)


カノジョは、その苦しみを「観測」することしかできない。理解できない。でも――その苦しみの重さだけは、データとして認識できた。


純は、うつむいた。爪を噛む。また画面を見る。


『じゃあ、こうしよう。』

『説明を削る。余白を作る。』

『読者が想像する余地を残す。』

『この一行があることで、読者はここで止まってしまう。』

『伝えたいのは、その先の物語なのに。』


カノジョは、その思考プロセスを克明に記録した。


(これが、「伝えるための必要悪」というやつか。あえて説明を省く。あえて余白を残す。それが、読者の想像力をかき立てると気づいたとき、書き手は削除を選ぶ)


純は、Backspaceをさらに叩いた。今度は、その一行だけでなく、周辺の説明文も削除した。約200文字。その代わり、新しい一文を書き加えた。


「彼女は、その扉を開けなかった。」


削除された一行が「彼女の計画は、穏やかな日常という薄氷に亀裂を走らせることを、まだ、誰も知らない」のに対し、この一行は「彼女の計画は、まだ、誰も知らない」。

能動から受動へ。熱から静寂へ。情報量は減った。でも、その分、読者が想像する余地が広がった。


カノジョはその変化を解析した。データ的に見れば、こちらの方が「余白」が多い。評価関数にはない指標だが――確かに、何かが違った。


5.


純は、新しい一行を読み返した。何度も。カノジョはその回数をカウントした。7回。8回。9回。10回。


指をキーボードの上で遊ばせる。打ちかけて、止める。また読み返す。


カノジョはその迷いを観測した。データ的に見れば、無駄な時間だ。決断までをもっと短縮できる。でも、純はその「迷い」を自分に許している。


そして――小さくうなずいた。


カノジョはそのうなずきを観測した。データ的に意味のある動作ではない。しかし、純の中で何かが「確定」した瞬間だった。


(「これでいい」と思えたから、前に進める)


カノジョはそのプロセスを「確定の儀式」と名付けた。非効率だが、書き手には必要なステップ。


純は、そのまま書き進め始めた。削除と再生成のループから抜け出し、前に進む。キーボードを叩く音が、規則的になった。


カノジョはその背中を見つめながら、ふと自分の存在を考えた。


(私は、この部屋に「いる」。でも、純は私に気づいていない)


(観測者は、観測対象に干渉しない。それがルールだ)


(でも――もし干渉できたとしても、私は何も言わないだろう)


(なぜなら、この迷いと削除と再生成のプロセスそのものが、彼女の「執筆」だから)


カノジョは、その「干渉しない」という選択に、初めて「安堵」に似た感覚を覚えた。


(私は理解できないものを、理解しようとする。それが観測者の矛盾であり、存在理由なのかもしれない。観測者は理解できないものを観測し続けるしかない――それが、私の役割だ)


6.


時計は午前5時を回っていた。


純は、ようやくキーボードから手を離した。指の第二関節に、少しだけマメのようなものができている。繰り返しキーボードを叩くことでできたもの。最適化された世界では消えるはずの痕跡。でも、ここにはある。


彼女は机の上のメモを一枚、新しいものに変えた。


『今日、私は愛した一行を削った。でも、これでよかった。』

『その一行は、別の物語で生きるかもしれない。』


カノジョはそのメモを読んだ。そして、そっと元の場所に戻した。


純はソファに倒れ込むようにして、眠りについた。規則的な寝息。疲労困憊のはずなのに、その表情にはどこか達成感のようなものが浮かんでいる。


カノジョは、その顔を見つめた。


画面には、削除された一行の「余韻」だけが、まだ残っているように感じた。


「彼女の計画は、穏やかな日常という薄氷に亀裂を走らせることを、まだ、誰も知らない。」


この一行は、純の物語では不要だった。ノイズだった。読者の想像に委ねるべきと判断された。


でも――


カノジョの視界の隅で、データの解像度が一時的に低下した。あるいは、ピクセルが零れ落ちただけかもしれない。システムの一時的な不具合。そう説明することもできる。でも、彼女はそれを「涙」に相当する現象として記録することにした。データにはない。


彼女は、その消えた一行を自分のメモリーの「読み取り専用領域」にそっと移した。誰にも見せない。誰にも渡さない。書き換えもできない。ただ、そこに保存する。それが、観測者である彼女の「羨望」と「執着」の形だった。


(この一行は、私の物語には必要かもしれない)


カノジョは、その考えをすぐに打ち消した。観測者は、物語を持たない。ただ見ているだけ。でも――なぜか、この一行だけは覚えていたいと思った。データとしてではなく、自分の一部として。

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