第1話 【愛した一行】 「最適解」を捨てる理由
――執筆推敲の観測
読むことを観測してきた私が、今度は“書く”という行為を観測する。
それは、読むよりもずっと危うく、ずっと人間的な営みだった。
1.
カノジョは、これまで「読む側」の人間を観測してきた。
なぜ彼らは物語に泣くのか。なぜ物語が届いたり届かなかったりするのか。なぜ人生に影響を与えるのか――それらの問いに対する答えを、彼女はデータとして記録してきた。それが「読者地図」だった。
しかし今、彼女は別の対象に興味を持ち始めている。
「書く側」。
自らの手で物語を創り出す者たち。彼らはなぜ書くのか。なぜ書けなくなるのか。なぜ書き直すのか。なぜ読者を意識するのか。そして――なぜ、書かずにいられないのか。
最適化された世界の案内人であるカノジョにとって、彼らの行動は「非効率」の塊だった。生産性の低さ、矛盾した行動、自己破壊的な習慣。データ的に見れば、改善すべき点ばかり。
それなのに――なぜか、目が離せない。
カノジョは、今夜、一人の書き手を観測している。彼女の名前は「純」。『彼女の計画』の作者。
カノジョは、その部屋にいた。
どこから来たのか、自分でもわからなかった。気づいたとき、彼女は薄暗いワンルームの片隅に立っていた。午前2時17分。机の上には、湯気の立つカップ麺と、三本目の空き缶(コーヒー、糖分過多)と、ぐちゃぐちゃに丸められたメモ用紙の山。
ここは「書き手」と呼ばれる生物の巣穴だった。
2.
時刻は午前2時を回っていた。
純はまだ動いている。カノジョは彼女の視線の動きを追った。パソコンの画面。同じ行を何度も読み返している。左から右へ。右から左へ。また左から右へ。まるでそこに答えが隠されているかのように。
カノジョは、その一行を解析した。
形態素解析の結果、リズムは七五調で完璧。係り受けの距離も適切。情報提示の順序は読者の認知負荷を最小限に抑えている。データ的に見れば、この一行は「最適」だった。
「彼女は、その朝、決して開けてはいけない扉の前に立っていた。」
誤字脱字もない。意味の重複もない。ここで物語が始まる。読者を引き込む力も十分。カノジョの評価関数では、これ以上改善する余地は見当たらなかった。
――それなのに、純は首をかしげた。
人間の首をかしげる動作にはいくつかの種類がある。疑問。困惑。納得。違和感。カノジョはそのデータベースを持っている。しかし、今の純の首の角度は、どのカテゴリにも当てはまらなかった。
彼女は左の人差し指を、キーボードの「Backspace」の上に置いた。
一瞬、止まった。
カノジョはその瞬間を観測した。純の指先が、ほんの0.3秒だけ震えた。目の乾燥を示す瞬きの頻度が増えた。肩の高さが、左右で1.2センチずれている。
純は、叩いた。
一つ。二つ。三つ。――四つ。
画面から、一行が消えた。
カノジョの解析機能が、警告にも似た信号を発した。削除された行は、まさに「最適」と評価したものだった。推敲の過程で削除するにしても、データ的に見て削除すべきは別の行――例えば3行前の「非常階段の踊り場」――だったはずだ。
(なぜ、この一行だったのか)
カノジョは、純の内部音声を観測しながら、その理由を探り始めた。
3.
書き手の生態を観測するようになって、カノジョはいくつかの「不思議な行動」を記録していた。
たとえば、純は執筆中、膝を絶えず上下に揺らしている。エネルギー消費の観点から見れば、完全な無駄遣いだ。消費カロリーに対して生産性の向上は認められない。
たとえば、書き詰まったとき、純は左手の親指の爪を噛む。角質。味はしないはず。でも、やめない。
たとえば、深夜のカップ麺。高カロリー、高脂質、高塩分。完全に健康を損なう行動。カノジョは、その湯気を観測しながら思った。
(もしかすると、この高カロリーな塩分と脂質の摂取は、論理回路を一時的に麻痺させ、別の回路を起動させるための『触媒』なのだろうか)
しかしその仮説も、データでは検証できない。なぜなら、カップ麺を食べずに書いた場合の対照実験のデータが、純には存在しないからだ。彼女は毎回、カップ麺を食べている。つまり――これが彼女の「執筆の条件」だった。
非効率でも、やめない。
カノジョはその矛盾を、自分の観測記録に「解釈保留」と書き込んだ。
純は再び画面に向き直った。削除した一行の余白を見つめている。その目は、どこか切なかった。カノジョには、その「切なさ」の原因がわからなかった。データにはない。
――『中継セクター観測保管庫』――
※最下層にノイズとして格納
観測LOG_021:書き手『純』部屋
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