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Ⅱ-8

 その年、一九九九年の九月一日から働き始めた。一に挟まれて、九が四つ。だから、はっきりと覚えていた。

 美邦は確かに言った。

「奇遇ですよね。オフィス・フィッシュに、サカナって名前の人が来るなんて…。名前を聞いたとき、もうこの人しかいないんじゃないかって思ったんです。それに…。びっくりしました。倉木さんのこの履歴書にある行田法律事務所ね。ここ、ぼくは著作権のことで何回かお世話になっているんですよ。訴訟があって…」

 ここまで思い出して、再び佐香那はぞっと寒気を覚えた。

 美邦は紅茶でもコーヒーでも淹れるのが上手だった。その日は紅茶を出してくれて、そのミントンのカップは佐香那の好きな柄だった。あのオフィスにあった物のほとんどが佐香那の好みに合っていて、自分が働くべき職場だと自然に思えたのだった。

 佐香那は布団を首まで引き上げた。いったいいつから? ほんとうに、美邦はシナリオを整えていたのだろうか。いつも静かに頷いて、佐香那の話をゆっくり聞いてくれた美邦。偶然というには、たしかに重なる点が多すぎる…。

 それまで付き合っていた鶴藤陽介は、見たくれもよく、遊び上手。女性の扱いもうまくてマメだったが、それだけに浮き立った印象が強く、いい加減な感じもした。誠実さに欠けると思うできごとがよくあった。

 三十歳に近づくにつれて、佐香那の気持ちは変化していた。

 オフィス・フィッシュに勤め出したのは三十一歳の誕生日をを迎える数日前。鶴藤とのすれ違いが多くなり、佐香那の気持ちはピリピリとササクレ立つことが増えた。だが一向に鶴藤は変わる様子がなかった。

 美邦は居るだけでふんわりと周りの空気を和らげる。悩みこそ打ちあけたことはなかったが、美邦はいつも佐香那の気持ちを優しくほぐし、吸い取ってくれるのだった。会社に行っていると気持ちが安らぐ。今までそんな経験はなかったし、恵まれていると思ったものだった。

(そういえば…)と、佐香那は思い当たる。結婚して佐香那は専業主婦となったわけだが、そのあと、美邦は従業員の補充をしなかった。特にそのことを不思議に思ったことはなかったが…。もともと美邦の頭脳一つで持っていた会社だ。事務も美邦一人で充分やっていけるということだろう。そこに佐香那を招いたのはなぜなのか。

 もやもやと頭の中を、いろいろな思いが駆けめぐり、明け方まで佐香那は寝付けなかった。


 連休明け、佐香那は原田公恵の実家に電話をして、公恵の嫁ぎ先の電話番号を聞き出した。公恵は結婚して、杉浦という姓になっており、今は千葉県の松戸市に住んでいるという。

「倉木です」

 と、佐香那は言ったが、十五年ぶりの電話だ。公恵はすぐにはわからなかった。

「あの菊中、高で一緒だった…」

「ああ、サカナ? 倉木だけじゃなくて、名前まで言ってくれたらすぐにわかったのに」

 学生時代の友達は不思議だ。相手を認識しさえすれば、すぐに学生時代の調子に戻れる。二人は、さんざん近況を伝えあい、ほどなくしてやっと公恵が聞いた。

「で? どうしたの? いったい」

「それが、へんてこな話なんだけど…、キー子、学生時代に原沢純一という子とつきあってた?」

「えー? やだあ。懐かしい名前!」

「ちょっとね、聞きたいことがあるんだけど、会えないかしら…」

 佐香那たちが卒業した菊野学園は麹町にある私立の女子校で、佐香那は卒業したその年の文化祭に行ったきり、近寄ったこともなかった。康子も誘って、三人は学校近くの喫茶店で次の日曜日に会うことにした。

 暖かく、気持ちのいい日だった。

 佐香那と康子は、午前中に会って、その喫茶店でランチを食べ、午後から現れる公恵を待った。

「キー子のところ、女の子二人もいて、上が小学校の四年、下が一年だって!」

 佐香那は、まず電話で得た情報を康子に伝えていた。

「すごーい! キー子ってけっこう遊んでたよね。そんなに早く結婚してお母さんになっちゃうなんて、そういう感じじゃあなかったよね」

 ほどなくして、公恵が現れた。

「あ、キー子。ごめんね。突然呼び出しちゃって」

「懐かしー!」

 三十過ぎの女性でも、すぐに高校時代の乗りになる。三人はきゃあきゃあとはしゃぎあった。

「二人ともあんまり変わってないね! ここ入ってきて、すぐに目に入って、わかったわよ! あたしはこのとおり太っちゃって…、すっかりお母さんしてるわよ」

 本題に入る前に、学生時代の話でまず盛り上がり、あっという間に一時間が過ぎた。

「ねえ、その…、キー子がつきあってた、ハラサワ君て子だけど、文化祭とかに来たことあるの?」

「そうそう。来た来た!」

「その時、ハラサワ君の友達も来た?」

「うん、来た来た」

「その中に『三野美邦』って人がいなかった?」

「それがさあ、名前まで覚えてないよ。でもそれ、けっこう変わった名前だよね。そんなんでも忘れちゃうのかな、やっぱり」

「体型もね…」

 と、康子が言いかけて、佐香那の方をうかがった。

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