Ⅱ-20
「ばか! どうして逃げなかったの! どうして、ここに帰って来なかったの!」
佐香那はもうめちゃくちゃに、ゲーム機とゲームのソフトを投げつけ、蹴飛ばし、いくつかのケースを叩き壊した。
「あたしが一人になって! それで、おまえは平気なのか!」
ゲームを次々と壁にたたき付け、踏んづけた。
「ばか! ミクニのばか! 愛してるって言うんなら、証拠を見せろよ!」
そうして、気が済むまでゲームを壊し、泣き崩れた。
佐香那は猛烈な吐き気に襲われた。手で口を押さえ、トイレに駆け込むと一気に吐いた。なんだか、目の周りがぼーっとする。頭の芯が重く鈍痛がして、熱っぽかった。
胸の当たりをさすりながら、寝室のドアを開けた。
美邦が亡くなって以来、一度も使っていないベッド。
「サカナちゃん、ぼくみたいのが近くにいたら、邪魔でしょ」
と言って、美邦は自分が使っていたセミダブルのベッドを左側に寄せ、佐香那には新品のベッドを買った。布団も何も、その時のままだった。
「ミクニのバカー!」
佐香那は美邦の大きいベッドに向かって叫んだ。その気力とは裏腹に声はかすれ、半分はのどに詰まってしまった。頭が締め付けられるようで、ドキドキ血管が脈打っており、今すぐに横になりたかった。
佐香那は自分のベッドに入り、目を閉じた。
気分が悪く、頭の痛みは全体に広がり、厚い粘着質の幕がかけられたように重くて、動きが鈍ってゆく。その頭の奥の奥、遠くの遠くで、なにかしなければいけないことを必死に考えようとするのだが、もうろうとしてきていた。
「えーっと…、明日は、どうしようと思ってたんだっけ?」
どうせ考えたって、予定なんかなかった。身体の節々もじくじく痛い。
眠っているのに、深い眠りではない。白昼夢のような、金縛りにあったような状態で…、身体は重くベッドに沈み込んでいるのに、頭のどこかだけがはっきり起きていた。
ドアが開き、美邦が入って来た。
『だめだよ、無理しちゃあ』
美邦は、一人用の小さい土鍋におかゆを作って、それを盆に乗せ、持ってきたのだった。
「ミクニ…」
『あれ? 結婚してもミクニさんってさん付けだったよね。呼びつけだとすごく親しい気がする』
「言いたいことがいっぱいあるの、あたし怒ってるのよ…」
『ごめんよ…。君を怒らせたくないよ。とにかく今はまずゆっくり休まなくちゃ。早く良くなってよ。そうすれば文句もいっぱい言えるだろ』
「ありがと」
自分の中に燃え立っていた怒りが、いとも簡単に冷めていった。
「ミクニ…、ごめんね」
『なんであやまることがあるんだよ…。あやまらなくちゃいけないのはぼくのほうだよ…、サカナ』
「やっと呼び捨てにできたね」
『熱、あるみたいだし、なにか食べないと…』
美邦の身体はかげろうのように、ゆらゆらしていて、心許なかった。
「ね、これ夢かなあ…」
言葉は口から出ているのではなく、テレパシーのように発している感じだった。
美邦は椅子を引っ張ってきて、お盆を乗せた。そして、スプーンにお粥を一さじすくった。美邦のふっくらとした手が目の前にあり、佐香那はその手に自分の手を重ねたかった。でも、身体は動かない。
「ずっと、ここにいてね…」
話すというより、念を送る。
『そうするよ。ずっとここにいるよ』
美邦の分厚い指が、スプーンをつまんでいる。それが佐香那にはなんだかおかしかった。
『笑顔がもどったね。もうすぐに良くなるね』
「うん」
お粥が食べられるように口を開けようとしたが、口を開けることができなかった。
「食べられない」
なんでも思いさえすれば美邦には通じる。そう確信が持てた。そして、心からほっとした。
『じゃ、ゆっくり眠るんだよ』
美邦の暖かい、ふっくらとふくらんだ手が、佐香那の瞼を覆った。暗闇がやってきた。
「どこにもいかないでね」
『わかってるって。ゆっくりお休み』
やっと本当に眠ることができそうだった。佐香那の意識はぼんやりとしてきて、安らかな息が自分を包み込んだ。
『愛してるよ、サカナ』
美邦の声が遠くで聞こえる。佐香那は母の子宮にもどったような安心感で満たされた。
どのくらい眠ったのだろう。ぼんやり目覚めてきて、カーテンの隙間から入る光に気付いた。
何かが佐香那を呼んでいた。
「起きなくちゃ…」
そう思ったが、身体がまだぎしぎししていて、思うように動かない。
何かが鳴っている。
「ね、ミクニ! 何か音がするよ」
『電話じゃないか』
美邦は約束通り、そばにいてくれたのだろうか。すぐ耳元で声が聞こえた。
「出てよ」
『それが…、出られないよ…』
留守番電話に切り替えていなかったのか…、電話のベルは切れてしまった。
佐香那はまだ、まどろんでいた。
『言っておかなくちゃならないことが、いっぱいあるんだよ。ぼく、おじさんがいるって言ってたけど…、あのおじさんは…』
美邦の言葉を追いかけるように、また電話のベルが鳴り出した。
「え?」
佐香那は重い体を支えて、起きあがった。
「ミクニ…」
誰もいなかった。
でも、電話のベルは鳴っていた。




