Ⅱ-12
奥から、挑戦的な視線の女が出てきた。
「あたし帰るわ」
女は、佐香那をジロリと睨むと、鶴藤を押しのけて、「ふん」とまるで音が聞こえるような振り切りかたで、
「ずいぶんと、お上品好みなのね」
と、佐香那の頭の先から足先までを冷たく突き刺すような視線で睨め付け、さっさと歩いて行ってしまった。
佐香那は、次の行動を取れずに、立ち尽くしていた。
「気が済んだの?」
鶴藤が佐香那の腕を掴む。その強さに、佐香那はたじろいだ。
「最初からそう言ってくれれば、どこかで会ったって良かったんだぜ。おまえは、こんなアパートより、ホテルとか洒落た場所が好みだろ?」
鶴藤が、佐香那の腕を引っ張った。
「たまには、入れよ」
佐香那は我に返ったように、鶴藤の腕を振りほどこうとした。
「待てよ。そっちも悪いんだぜ。こそこそ探るようなことしてさ。男にはいつも息抜きの遊びも必要なんだよ」
佐香那は懇親の力を込めて、鶴藤の手を振りきった。そして、走り出した。
佐香那の背に鶴藤がどなる。
「次からは、電話くらいしろよ!」
「次?」佐香那の耳に残った言葉。いったい、いつ「次」があるというのだろう。
佐香那は駅まで走って、電車に飛び乗った。中央線快速の東京行きだった。安っぽい恋愛ドラマの成り行きみたいで、情けない気分だった。
馬鹿みたいにスーパーの袋をしっかり握りしめていた。投げつけてやれば良かったものを。
外は暗くて…、入り口のガラス戸に写った自分の顔に目を移した。眉間にしわを寄せた暗い顔。ますます気分がどんよりしてきていた。そのまままっすぐ家に帰る気がしなかったが、どこに行こうというあてもなかった。
まず、最初に浮かんだのが美邦の笑顔だった。時計を確認するともうすぐ八時になろうとしていた。でも、無性に美邦に会いたかった。
新宿のホームに降り立つと、佐香那は階段を下りながらもう美邦に電話していた。
「はい、三野です」
ケイタイの向こうから聞こえた美邦の声。佐香那はなぜかほっとした。
「あ、すいません、ミノさん。クラキです。あの、今新宿なんです。すいません、変な時間に。でもどうしてもお話ししたくて。あの、ミノさんのお住まいは自由が丘ですよね…」
自分から電話をかけておいて、変な対応だったと思う。でも、佐香那の足は渋谷に行くべく、山手線のホームに向かっていた。
「すみません、こっちでかけておいて…。あの…、ミノさん、今何してらっしゃったんですか?」
「あ、別に。」
「こんな時間…。お食事中でした?」
「あ、いや…。今、これから食おうかと…」
「あ、それだったら…、あの…、急にこんなこと言って、びっくりされると思うんですが…、あの…、あたし用意しますから…、ちょっと遅くなっちゃうけど…、その…、一緒にお食事でもどうかと思って」
今までつきあってもいない男に対して、こんなに大胆なことをしたことはなかった。それも、美邦とは一ヶ月前に知り合ったばかり。会社の上司でもあり、仕事だけのことしか知らないというのに。
だが、佐香那はそれを美邦が許すだろうことを確信していた。そして、佐香那が行くと言えば、きっと否定しないだろうことも。
「え? あ、いいですけど…」
思ったとおりの返事が返ってきた。自分が舵を取っているような、どこからともなくくる自信があった。そこには邪悪な気持ちが潜んでいた。今ならはっきりそうわかる。
だいたいにおいて、なぜ鶴藤のアパートを不意打ちしたのか? ほかにつきあっていた女がいる予感はしていた。無意識に佐香那は踏切台を用意したのではないのか? 自分から美邦に連絡する勢いが必要だったのではないのか?
美邦は自分に好意を持っている。そして、美邦に女がいるわけがない。美邦の世界に佐香那は光をもたらすことができるかもしれない。その邪悪なささやきは、佐香那の背筋をぴんと伸ばさせ、佐香那を勇気づけた。
今思うと、うすら寒い感じさえした。
自由が丘の駅からもう一度電話をかけ、美邦の家までの道順を聞き、まっすぐ美邦のマンションまで向かった。
弾みで言ってしまったような部分もあり、元から考えていたような部分もあった。
十月の半ばで、その日の風は少し冷たかった。美邦のマンションに近づくにつれ、その風に冷まされてか、佐香那の自信は薄らいできていた。急に自分の浅はかさに気づき、怖じ気づいた。そうして…、ふと目を上げると、ジャージ姿の美邦がこちらに向かって歩いて来ていた。
「どうも」
美邦は人の良い笑顔で、マンガのように頭をかいていた。
迎えに来てくれなかったら、引き返していたかもしれない。自分で計算したような後ろめたさを、美邦の笑顔はかき消してくれた。
美邦はもともと口数が多い方ではなかったが、人を和ませる力を持っていた。
「いやあ、びっくりしましたよ。でも、ちょっとうれしい感じもしてるんです…」
美邦は佐香那の緊張をほぐすように、さりげなくごく自然に話しかけ、佐香那はほっかり心の中が暖かくなるのを感じた。




