Ⅱ-11
康子と簡単な食事を済ませて家に戻ったのは、八時過ぎだった。美邦が亡くなってから二ヶ月間、夜に出かけたことはなかった。昼に出かけるのも億劫で、買い物に出るのさえも面倒くさかった。
このマンションは広すぎる、と佐香那は思った。美邦の部屋も、寝室も今は使っていない。寝起きは畳の部屋で済み、キッチンも一人で使うには立派すぎた。
美邦は、佐香那がオフィス・フィッシュに勤め始める直前にそこを買ったという話だった。まるで、佐香那を迎え入れるために…?
「まさか…」
声に出して言いながら、また不快感が口の中に戻ってきた。
佐香那は、初めてこのマンションに訪ねてきた日のことを思い出していた。オフィス・フィッシュに勤め出して、一月ほど経ったばかりだった。
その時は、鶴藤と付き合っている最中で、三年目の秋を迎えていた。
鶴藤とはその前に勤めていた行田法律事務所のある雑居ビルで知り合った。鶴藤は同じビルにある旅行代理店に勤めていたのだ。
大学卒業後、佐香那は石井電気という中小の電気会社の総務職についた。そこで三年勤め、一年のブランクのあと行田法律事務所に就職したのだ。そんな佐香那の目に鶴藤は少しばかり新鮮に見えた。
それまで佐香那の周囲にいた男は年こそ若いがドブネズミルックで、生真面目で、おもしろくもなかった。
鶴藤はモスグリーンや、サーモンピンクのシャツをさりげなく着こなし、外国製の奇抜な柄の派手なネクタイも似合っており、多くの顧客と接するせいか話術も巧みだった。
大学時代には付き合っていた彼もいたが、就職後は疎遠となり、就職してからは付き合うほどの関係に発展した相手はいなかった。
高校卒業後、佐香那の一家は平井から田無に引っ越していた。田無は父の実家があった所だった。行田事務所に勤め出すのをきっかけに佐香那はその田無の実家を離れ、都心で一人暮らしを始めていた。
つまり、佐香那の方では良い機会さえあればいつでも男を迎え入れる準備が整っていた。
「あ、倉木さん」
ある日の帰り道、後ろから声をかけられた。行田事務所の行田をはじめ何人かの人は、出張や個人的な旅行の計画があると、鶴藤のいた旅行代理店に投げることが多く、鶴藤が事務所に出入りしていたことがしばしばあり、お茶を出したり、軽くあいさつしたりしたことはあった。
「帰りですか?」
と言われて、「はあ」なんて、つれない返事をしながらも、少し胸が高鳴った。
「ぼく、夕飯まだなんです。また仕事に戻らなくちゃならないんだけど、どうですか? 一緒に食べませんか?」
すごくさりげない感じで言われ、特にやることもなかった佐香那は
「そうですね」と言いながら、悪い気はせず初めての食事をした。
会話ははずみ楽しかった。その日のことはなんとなく心に残り…、鶴藤の方から積極的に声をかけてくるようになり、数回会い食事に行き、飲みに行きと、ずるずるとつき合うようになった。
つきあっていた三年間の間にだんだん鶴藤の本性もわかってきていた。鶴藤はいつも調子が良く、外国での話もおもしろく、会っていて飽きなかったが、他にもよく遊んでおり、真面目に佐香那との将来を考えているという様子はなかった。
佐香那の方ではそれまで結婚を焦ったことはなかったが、三十歳を境に、ふっと落ち着きたいと思う瞬間が増えてきていた。それまで鶴藤とはっきり結婚するとか別れるという結論を出すほどのきっかけもなかったのだ。そんなずるずるした関係に嫌気が差し、もやもやした不満が溜まってきていた頃だった。
サカナは鶴藤のアパートを約束なしに訪ねてみることにした。
鶴藤はいつも佐香那のアパートか、ホテルで過ごすことを好み、佐香那は鶴藤のアパートには数回しか足を踏み入れたことがなかった。
不意打ちをして驚かせてみたいとは兼ねてから思っていたことだった。何かのドラマで見たのだ。彼の好物を買い、急にアパートに押しかける。新品のエプロンをつけ、食事の支度をする…。憧れていたわけでもないのに、そんな図が浮かび、変化のきっかけを作る非の打ちどころのないお茶目な作戦だと思われた。
鶴藤は添乗員として海外に行っている事が多かったが、その日はツアー帰りの翌日で、オフであることはわかっていた。
十月だった。鶴藤のアパート近くのスーパーで、佐香那は口実をそろえるように買い物をした。
鶴藤の部屋の前。思い切ってチャイムを鳴らす。
「だれ?」
鶴藤の声。
しばらく間があって、ドアの覗き窓から確認している鶴藤。
鍵の開く音。
「なんだよ。おまえ、今日、用事あるって言ってなかった?」
扉の隙間から顔だけ覗かせる鶴藤。
佐香那の心臓は、だんだん大きく打ち始める。そしてできるだけ平静を装って…、
「お客様なの?」
鶴藤の顔が怒ったように、固まっていた。
ドアの隙間から、玄関の靴脱ぎにあるハイヒールを確認する佐香那。その視線に気づく鶴藤。気持ちがどんどん冷えていく。気力がどんどん萎えていく。
「ねえ。これって、抜き打ち検査とか、そういうつもり?」
鶴藤が嫌みたっぷりに言った。




