純心
疲労困憊の様子で寝入る少女に自らの上着を与えた崇志は、自分も、体力を回復するために、手近な大樹の幹に体を預けた。
実母さん、かあ……。
荒魂となった末に、1番に愛情を注いでいただろう息子本人から拒絶される母の立場を、わずかに想う。
……まあいいや。死んだ人間のことをいつまでも考えるのはよくないからな。
実母への同情を絶ってほしい。持衰は混濁する前に崇志に言った。
『タカシ』が実母のことを考えつづければ、いつまでも縁が繋がってしまう。だから、もう忘れ去ってほしい。
と。
「またこいつの世話になるわけに行かないしな。忘れよう」
もともと単純な性格の兄は、優先すべきを持衰に定めて、安江の存在を頭から追いやった。
それにしても。
……結界のせいで実際の地形がよくわからなかったけど、こんなところだったんだな……。
丈高い強靭な藪の中にいると思ったのに、周囲はいま、ぬかるんだ泥土に囲まれている。小高い位置にわずかに残る樹林まで、持衰と自分を引きあげた崇志は、改めて自分の足跡を思いかえした。
東海林との電話で、俺、頭に血が上って……。
裕貴を呼びだした経緯はクリアに思いだせる。
松原と、東海林を取りあう羽目になって……いや、これは俺が悪いのか。
もともと恋人同士だった2人に割りこんだのは崇志のほうだ。冷静になれば、自分の傲慢さに頭を抱えたくなるほどの恥を覚える。
……松原には謝らないとな。……でも、あいつはどこに行ったんだろう。
結界が解けたとき、崇志のそばにいたのは持衰だけだった。裕貴の姿は1回も見ていない。
まあいいか。ここを出れば会えるだろ。
いま自分がいるのは、稲荷神社の奥に広がる森の中だ。かなりの傾斜を駆けのぼった記憶があるから、このまま斜面を下れば、稲荷神社の境内に着くはず。
……にしても……。
山の中にしては、水場に近い雰囲気を感じる。地の底から這いあがる冷気も、尋常ではない湿気を帯びていた。
が。
「……まあ、考えてもしょうがないか」
眼前の少女が目を覚ましてくれないことには、崇志も身動きが取れない。
慈愛に満ちた表情を彼女に向けながら、無理に起こすことはせず、兄も自らの休息のために目を閉じた。
うとうとしたのは、ほんのわずかな時間だったと思う。
強烈な寒さに覚醒を強要された崇志は、空から落ちる白い結晶を見て、溜息をついた。
「もう少し寝かしてやりたかったんだけどな」
こんな環境の中でのんびりしていては生命に関わる。
体を丸めて、兄の大きな上着にしがみつくように睡眠を貪っている妹の肩を、軽く揺する。
「おい。そろそろ起きてくれ。帰るぞ」
わずかに身じろぎはするものの、頑固に意識を戻さない持衰。
「こら。おい、置いていくぞ。いいのか?」
多少の脅しを交えても効果は見られない。
やれやれ。
通常ならば、痩せぎすの妹ぐらい楽におぶって下山できる。でも、いまの崇志には、裕貴の警棒に叩きつけられた左腕の損傷がネックになっていた。折れてはいないと思うが、ひびは確実に行っているだろう。
添え木でもあれば力は戻るか。
見渡せば周囲には手頃な木片がいくつも転がっていた。自分の尺骨のサイズに合うものを拾ってあてがう。そして、
「包帯……はこの状況じゃあぜいたくか。何か布でも……」
再び視線を巡らすと。
頭上、自分が体を預けていた大樹の枝に、細く裂けた布地のようなものが見て取れた。
距離、約80センチ。
兄は跳びあがって、右腕1本の握力で、目的の枝にぶらさがった。
ああ……くそ……。
ほんの30センチ先に見えている布地は、ねじれた結び目も緩んで、簡単に解けそうに感じる。けれど、それをもぎとろうとした左手は、持ち主の意思に反して、まったく反応しなかった。
骨が曲がって神経でも圧迫しているのだろうか。気味の悪い痺れと鈍痛に、指先の感覚が失われている。
いったん地面に下りた兄は、目の先で揺れる黒っぽい端切れを睨みながら、思案した。
体重をかけて枝を折りとるのは……無理だな……。
周囲の常緑樹が黒い影を作る中、その1本だけが葉の落ちた白い樹皮を晒している。硬そうな枝、しかも、とっかかりの少ない幹。右腕1本では上ることも難しそうだ。
あ、そうか。
思いついた崇志は、転がっている長い棒状の木片を掴み、布に向かって突きだした。
先端が引っかかる。
行けるかな……。
慎重に結び目を緩める。
「愚か者!」
いきなり後ろから持衰の叫び声が放たれた。
「え? な……」
何を咎められたのかわからず、とりあえず動きを止めた兄。
その兄からの反論を待たず、持衰は崇志の手から棒を引ったくった。
「そのような穢れたものに触るな! なぜ『タカシ』はそういうものに近づいてしまうのだ?!」
「……なに怒ってんだよ、お前?」
持衰の激昂にとまどった兄は、その意味を知ろうと、必死な形相の少女から首を巡らせて、再度、端切れのほうに視線を戻した。
そして。
そこで、自らが履いていたであろうズボンを枝にくくりつけて首を吊っている、下半身に下着のみを着けた間抜けな中年男の死体を見た。
吹き荒れる風と叩きつける雨の幾星霜。
目の前の無残な死者は、体液を垂れ流し、表面の肉を溶かし、目玉を失くし、四肢の骨を落としていった。
屍肉には蟻が集り、蜥蜴がそれを食い、鳥が最後に攫った。
肉体は食物連鎖の末に地に還り、容れ物をなくした魂は永いときを彷徨う。
死者の国の入り口を見つけられずに、うろうろとこの地に自縛する、哀れな中年男の精神。
そこまでの工程を気丈に観察しつづけていた崇志は、最後の光景で目を逸らした。
自ら死を選んだ男の残留は、地の中から湧きでてきた土気色の子どもたちによって、いくつもの欠片に引き裂かれ、血をまきちらしながら慟哭した。
助けてくれ。助けてくれ。
視界を閉じていても聴覚に障ってくる、哀願の声。
びちゃびちゃと肉を食む音が続く。ぶちんぶちんと神経を噛みくだく響きが渡る。
痛い痛い痛い。
とっくに失しているはずの肉体が損壊していく様を思わせる、悲痛な声。
これを無視していいんだろうか……。
生者は死者と交わってはいけない。つい先刻、それを学んだばかりの兄に、また迷いが生じる。
そりゃあ……もう死んでるんだから、助けることはできないけど……。でも、このまま、完全に存在がなくなるまで、何もせずに放っておいていいんだろうか……。
大地から生えるように現れた数人の子ども。不可解な彼らは、でも、中年男に対して善行を施しているとはとても見えない。男のわずかに残った意識すら食いちらかして滅してしまう悪鬼羅刹の類ではないだろうか。このままにしてしまえば、男は何の救いを受けることもなく、絶望のまま消去されていくのみなのではないか。
生きているあいだに、どんな苦しみがあったのかは知らない。けれど、男は死ぬことで安楽を得られると期待したはずだ。そのささやかな希望さえ奪われての終わり方しかないのなら、彼は何のために生きてきたんだろう……。
ゆっくりと視線を男に戻し、彼に腕を伸ばしかけた崇志は……思いとどまった。
俺は……もう死んだ人間に関わるのはやめるんだ……。
半分以上、骨を剥きだしにした男の残像は、そのまま地の中に吸いこまれていった。
泥土の箇所を避け、感覚的には大回りしながら、崇志は持衰を伴って山を下っていた。
死人とはいえ他人を見捨てたという自責からだろうか、妙な倦怠感が体につきまとう。
さっきから一言も発しない兄に、持衰は何度か喋りかけようと試みているようだった。けれど、口をもごもごとさせるだけで、その声は音にならない。
不安顔の少女に、あえて表情を明るくして、崇志は自分から本音を語りかけた。
「俺さ、自分のせいで親を死なせただろ。だからいつも、死んだ人間の気持ちを忘れちゃいけないと想いつづけてきたんだ」
「……」
持衰は、黙ったまま、兄を見ている。
「坊主になりたいと思ったのは、早川の家から逃げるためだけじゃない。本当に実父さんと実母さんの供養をしていきたいって……そういう気持ちを持つことが、俺自身にとっても、自分を見失わないための支えだったんだよ」
「……『タカシ』は実父と実母のことが好きだったのだな」
持衰の表現に、早くに両親を失くした不遇の青年は、苦笑いで、応えた。
「……そうだな」
記憶にないほど幼いころに壊れてしまった家庭を、恋しいと意識したことは、あまりなかったように思う。でも早川の家に引きとられたとき、新しい家族とうまくやって行かなければならないと気負った決意は思いだせる。『死んだお父さんとお母さんのことは、ここでは言っちゃいけないんだ』と。
「俺は親のことを本当は忘れたくなかったんだよ」
周囲に『早く事故から立ちなおって元気になって』と期待されるたびに、両親の存在から遠ざけられた気がした幼少期。
「そういう……なんつうか……未練、みたいなものを理解してくれたのが、美耶1人だったわけだ」
兄の生い立ちを、持衰の感知能力を通して知っていたはずの妹は、何かにつけて崇志にまとわりついては、言った。『あたしがお母さんの役をしてあげる』。
持衰が足を止めた。
つられて立ちどまった兄の目に、少女の沈んだ顔が映った。
「『おれ』は、やはり、『タカシ』と『ミヤ』にとって、邪魔な存在だと思う」
そして、さきほど崇志が握った手を、大事そうに反対の掌で包み、続ける。
「『タカシ』が『おれ』に『いていい』と言ってくれたから、少し自惚れてしまった。『おれ』は『タカシ』の妹として扱われるべき立場ではない。『おれ』は、肉体を持って生きていた時代でも、みんなからの嫌われ者だった。お前たちにとっては、まさしく荒魂にしかならない邪念の塊なのだ」
美耶の中に留まって、この先も人間として生きていくこと。
古代において肩身の狭い生活を強いられていた持衰にとって、自分の居場所を確保できることは、おそらく相当に幸せなはずだ。
けれど、それを崇志たち兄妹のために諦めると言い張る。
兄も少し考えこんで、慎重な返事を返した。
「俺がお前に『美耶の中から出ていくな』って言ったのは……美耶をお前の犠牲にしてもいいと思ったからじゃない」
結果的に、持衰が留まれば、美耶の意識が二分する現象は続く。妹にとって、それは歓迎できないことだろう。でも。
「お前がいることで、この先も美耶にトラブルがふりかかることになっても、俺がそばでサポートしてやればすむことだ。まあ、お前にも、もうちょっと美耶を丁寧に扱うようには頼むけど」
最後に軽口を混ぜて、持衰と美耶、双方の面倒を見ることを確約する。
「だが、それでは『タカシ』が犠牲になる」
それでも渋る持衰に対し、崇志は笑みを浮かべながら否定した。
「俺はむしろ喜んでるんだよ。これで自宅に戻る大義名分もできたしな。それに」
わずかに首を落とし、頭を掻いて、照れながら、言葉を続ける。
「本当は、美耶と離れて暮らすのは、けっこう辛かったりするし……」
妹と同じ姿を持った持衰が、そっと兄の腕に寄り添った。
「……おかしなものだ。『おれ』がいることで、『タカシ』と『ミヤ』が近しくなるというなら、それは嬉しいだけのはずなのに」
見あげる少女の目から大粒の涙がこぼれる。
「『おれ』は、『おれ』もお前たちの仲間にしてほしいと願ってしまう。『おれ』がいることで、お前たちが喜んでくれることを望んでしまう」
稲荷神の結界の中、持衰の古代の記憶と繋がった崇志にとっては、持衰の想いはよく理解できる。『お前たちは仲間がいていいなあ。おれには誰もいない』。強烈な孤独を抱えていた両性具有の巫女は、他人に対して冷たく無関心なふりをしながら、理解者が現れることを切望していたのだ。
膝を緩め、わずかに屈んだ姿勢で、持衰と視線を合わせた兄は、
「俺はお前自身にも興味を持ってるよ」
と言った。
「ひねくれた美耶も、素直なお前も、どっちも可愛いと思う。妹として及第点は充分にやれる」
持衰の遠慮を封じるように、わざと兄としての強権を前面に出す物言いをする。
と。
持衰は安心したように、
「『おれ』を嫌わないでほしい」
と本音を囁いた。
「『おれ』はずっと『タカシ』の家族でいたい」
真摯な告白を重ねる。
「俺も、お前にいなくなってほしくない」
兄は、捨て猫のような表情ですがる新しい妹に憐憫の目を向けながら、その小さな頭をそっと撫でた。




