融合
「いてっ」
急な痛みに、ぼんやりと座りこんでいた兄は胸を押さえた。夢璃が乗ったときに負った怪我が、なぜかいまさら再来する。
もう忘れていたほどの些細な悪意の象徴。それがいきなり大きくなる。びきびきと鳴る肋骨。何百キロという重量に押しつぶされているような圧迫感。
なんだ?! また何が始まったんだ?!
裕貴からの一時的な開放で安らいでいた肉体が、ついに実母の本性の前に崩壊を始めたのだろうか。
激しく動揺する心を収めるために、兄は地に爪を立てて耐えた。
「……てえ……」
次に始まったのは耳への疼痛だった。座した姿勢を維持できずに、崇志は転がる。
耳の奥に穴が空くような激痛。
これって……。
薄ら笑いを浮かべながら小指を差しいれる夢璃の淫靡な表情が、崇志の記憶の中で蘇った。『崇志の気持ちなんて考えてあげない。あたしはあたしのやりたいようにやるもん』 そう言って耳の内壁を削った彼女。
……俺にとり憑いてるのは、実母さんじゃなくて、本当は東海林かもな……。
自分を恨んでいるのは実母ばかりとは限らない。おざなりな交際をしてしまった夢璃や、夢璃との恋仲に割りこんでしまった裕貴の怒りを想像して、崇志は、また生きる意欲を減退させる。
どうせ抵抗したってなあ……。
疎まれるしかない人生を生き抜く気力がない。
俺がいなかったら、養父さんと養母さんは自分の本当の子どもだけを大事にできたのに……。
実母の妖力によって記憶から消されている朧な家族の姿を、無理やり引っぱりだして、悔恨に暮れる。
俺、実母さんたちと一緒に死ねばよかった。
なぜ自分だけ生き残ったのか。なぜ自分は生きることにも死ぬことにも中途半端なまま苦しまなければならないのか。
……前世でよっぽど悪いことでもしたのかな、俺……。
かつて僧侶を志望していた青年は、輪廻転生の業を自分に当てはめて自嘲した。
だったら……もういいか……。
実母の執着に自身を委ねること。それが、本来あるべき己の道のような気さえして、崇志はゆっくりと意識を手放していった。
真っ黒な夜に、波の音が重なる。
目を覚ました自分の横には、麻の貫頭衣を着た髭面の男が座っている。ぱちぱちと爆ぜているのは焚き火だろうか。寝転がった頭の先で、熱と光がちらついていた。
前を向いたまま、髭面は崇志に向かって呟いた。
「見ろよ。ヒトの霊があんなに漂っている」
釣られるまま、兄も身を起こして前方の海を見据える。
断崖絶壁の上での立哨。海からやってくる敵を見張るのが己の役目だと、崇志はこのとき自覚していた。
剃りあげたはずの頭からは長い髪の毛が垂れる。簡易な服の下には、発達した筋肉と複雑な文様を描く刺青がある。
ヘジ、という名と、己の生い立ちの記憶を、この瞬間に兄はとりもどした。
当時はまだ地域を区切るという概念はなかったが、現在でいう西日本に位置する小さな村落がヘジの故郷だった。物心がつくまえに始まった戦に巻きこまれ、父と母を亡くしていた。
そのころのクニは完全な共同体であったため、親のないヘジは他の大人にあたりまえのように育てられた。集落の結束は固く、ヘジを放棄する風潮はいっさいなかった。
順調に18年の成長を重ね、戦士としての資質に恵まれた若者は、10年以上続いている乱戦に迷うことなく身を投じた。クニから数キロ離れた戦人のムラに滞在し、大将の統括の元、昼夜の緊張を強いられる戦闘に進んで殉じた。
戦うことにためらいを持たないヘジだったが、それでも戦局が不利に傾きつづけ、とうとう、この海沿いの地まで追いやられた現状では、戦というものの不毛さに、そろそろ気づかなければならない心境に迫られていた。
漆黒の水面に舞いおどる白波。それに紛れて浮遊する数多の戦死者の人魂に目をやり、隣人に呟きを返す。
「……あの霊たちは死んだことを後悔しているのだろうか。それなら、なぜヒトは戦などを嬉々として続けるのだ?」
「皆がそれを思いながら、誰も戦をやめると言わないからだろう」
10歳ほど年上に見える髭面は、口元に皮肉めいた笑みを浮かべて、そう答えた。
誰もが生きたいと願い、誰もが殺しあいを厭う。それなのに、ヘジには、いや、ヘジ以外の戦士たちの中にも、生にしがみつく己の本質を『臆病』とそしる感情が強い。
「動物ならば、生き抜くことを恥じたりはしないというのに、なぜヒトだけがこんな思いを持つのだろう」
まだ青年期に入ったばかりのヘジの疑問に、戦の経験が豊富な先達は、
「敵がいるかぎり誰かが戦わねばならん。俺たちが己ばかりを庇いてそれを放棄すれば、クニが滅びる」
と端的に説明した。
クニを守るために応戦する。
親代わりに育んでくれた仲間を慕い、自分の役割を納得しようとするが、ヘジにはどうしても引っかかってしまうことがあった。
クニの皆は親切で温かい。ヘジにとって家族同然の間柄だ。子ども時代の自分をまるごと受け入れてもらったし、恩返しもしたいと感じる。
ただ……。
本当の父母が生きていたなら、自分は……この、集落に対し、どこか遠慮した気持ちを抱えている自分は、もっと素直な感情が出せるのではないか、とも思う。
「……本物の父と母のために戦うのなら、俺は迷いはしない……」
己の中にくすぶる戦への嫌悪感を使命感にすりかえるには、クニの人々の生命だけでは足りない、と、暗に口にする青年に、すでに妻を持って久しい髭面は、
「それなら女に惚れることだ。やる気がまったく変わってくるぞ」
と目を細めて、からかった。
そうなのだろうか。
未だ異性への特別な感情を持たないヘジには、女という存在が自分を動かす原動力となると言われても、ピンと来ない。
「女に惚れるとどうなるのだ?」
髭面に尋ねるヘジに同調して、崇志の意識にも白い裸身の記憶が浮かんだ。
「そうさなあ……。何をしていても頭の隅に湧いてくるのだ、その女の姿がな」
人生の先を行く髭面だが、この話題ばかりは、にやけた面を隠そうともせず、ヘジの朋輩に下る。
「何をしていてもか?」
重ねるヘジに、
「そうだ」
即答する相手。
夢璃と初めて関係を結んだとき、崇志にもしばらく呆けていた時期があった。考えることすべてが彼女の柔らかな肉体に埋没するような。肉欲は情欲に進化し、それまで特に強い恋愛感情があったわけではない夢璃のことが、離れがたい対象に見えたりもした。
ヘジはしばらく考えてから、
「そういえば、わけもなく思いかえす者ならいる」
と答えた。髭面の口から笛の音が漏れる。
「なんだ。やはりそうか。お前ほどの美丈夫がなぜ妻を探さぬのかと皆が疑っていた」
整った顔立ちを持つ、古代においての適齢期を迎えた青年に対し、茶々を入れる。ヘジは、少々迷惑そうな顔をしながら、
「そんな相手ではない」
と断った。
ピンク色に上気し、満足気に腰をよじらせながら蠢動する夢璃の幻影が、網膜を塞ぐ。
……惚れた女って、こいつだったっけ?
兄は、自分の分身であるヘジと、必死になって記憶を合わせようとした。
俺がこんな夢を見ているのは、きっと何か意味があるはずだ。この古代人の語る『わけもなく思いかえす相手』は、俺にとっても重要な関係の誰かであるはずだ。
そんな確信が湧いて、焦る。
夢璃の艶やかに装った唇が己のそれに重なる。ねっとりと絡まる唾液が甘い。
あたし以外のことを考えちゃ駄目よ……。
ささやき声が耳孔の傷に染みる。
違うって……。
求める裸身の主は、こんな慣れ合いの惑溺の中にはいない。
もっと……見つけたときには、ひどくショックを受けたんだ、俺……。
深夜の沼のほとりで、泥に沈みながら弱い呼吸をくりかえしていた少女。
「それで誰なのだ、その者というのは?」
笑みを貼りつけたまま聞く髭面に、ためらいがちに答えるヘジ。
「惚れているわけではない。可哀想だと思っているだけだ」
「可哀想?」
思わぬ矛先に、朋友は鼻白む。
「そのような者がクニにいたか? みな、こんな戦のさなかにあっても、明るく救いあっているではないか」
「……村落ではない。その者がいるのは、この戦人の集落だ」
ぽつりと控えめに告白したヘジの複雑な顔を見て、髭面もようやく見当に至ったようだった。
ヘジの記憶に引っぱられるまま、崇志もその瞬間に立ちあう。
2人も入ればいっぱいになってしまう小さな竪穴式住居の入り口に、ヘジは立ちつくしていた。空気取りの窓さえない暗い室内で、半分、剥がされた衣装を手に握りしめ、白い背を向けて泣いている半男半女の巫女。
つい先ほど、この隔離された持衰の住居から、転げるように逃げでた戦人たちを、ヘジは目撃した。酒が入ると、持衰のことを興味本位に話題に出していた者たちだった。『あれの体はどうなっているのだ?』と。
このときまで、ヘジは目の前の特殊な巫女のことを気味悪く思っていた。半端な肉体は内包する凝々が穢れているからだとオサから教わっていたし、敬いを欠かすと祟る蛇神の化身だとも言われていたからだ。
いつも冷たく表情を凍らせ、オサ以外とは口も聞かぬ持衰。同じ集落に暮らしながら、飯を共にすることもない。戦局がいよいよ決するとなれば、その神通力で役に立ってくれるという巫女は、もともと人間の仲間として認めてはいけない存在なのかもしれないとさえ思っていた。
けれど、目の前で骨ばった醜態を晒すそれは、神の依代としてはあまりにも惨めで、哀れだったのだ。
「俺から声をかけることはしなかったが、持衰のほうはこんなことを言っていた」
記憶の海から現実に戻ったヘジは、小さくなった火に木片をくべながら、続けた。
「『お前たちは仲間がいていいなあ。おれには誰もいない』と」
髭面も焚き火の番に参加しながら、言葉を足す。
「その話なら聞いている。持衰が妖しい術を使って連中を引きこんだのだろう? ヘジは持衰に騙されているのだ」
ヘジは、熱に焼かれる己を目を労ることもなく、炎を凝視したまま、反論を返した。
「それは、俺は、違うと思う」
肋の傷が痛む。耐えがたいほど。
ヘジの意識から離れ、兄は胸を押さえて呻きを噛んだ。
夢璃の悪意が、傷口をさらに広げる。
「崇志が考えていいのはあたしのことだけでしょ?」
それを包み消すように、少女の穏やかな声がかぶさる。
「やむを得なかったとはいえ、『おれ』は人を殺した。でも、すべてから見放されて当然のことをした『おれ』を、『タカシ』は嫌わなかった。だから『おれ』は『タカシ』に感謝して、『タカシ』を助けたいと思うのだ」
『あたしのこと以外、考えちゃだめ』 甘い芳香を放つ荒魂の幻惑が、目の前を覆う。
でも、その向こうから、力強く差しのべてくる救いがある。
『おれ』は『タカシ』を助けたい。
崇志を支配する実母と夢璃のどす黒い情念が、清廉な巫女の手によって、身内から引きずりだされていく。
しがみつく実母の血まみれの右手が、息子の生命の源である心臓を掴もうとしたが、黒く艶やかに照る2匹の蛇に、あっけなく噛みくだかれた。
「いててて……っ。いて……」
自分の中でくり広げられる争奪によってもたらされる激痛。泣き言をくりかえしながらのたうちまわる兄の目には、でも光が戻っていた。
帰って、持衰に言ってやらないと。
妹を乗っとられた怒りで、非難ばかりしてしまったあの存在に、どうしても伝えなければならないことがある。だから起きないと。立たないと。この結界を抜けて、うちに帰ってやらないと。
片腕の力だけで無理やり身を起こす。視線を上げると、いつまでも暮れなかった蒼い薄闇が、正常な夜の帳に塗りかえられていた。
がたつく体を支えるために地面に食いこませた右手の甲に、白い指がそっと乗る。
荒魂との精神的な激闘を強いられたせいだろうか、持衰自身も激しく息を切らせながら、それでも汗の浮いた顔に笑みを浮かべた。
「やっと掴まえた。あまりにも深くまで実母が入りこんでいたせいで、時間がかかった」
言いわけをしながら、兄の手を掴んだまま、地面に倒れこむ。
一瞬だけ、潮の香が広がった。夜の漆黒の海に漂う、死にきれないヒトの霊の咆哮が、崇志の耳の奥に轟く。
長い黒髪を地に散らしながら、満足気な表情を浮かべた持衰は、意志の強そうな瞳を伏せて言った。
「これで荒魂が『タカシ』を蝕むことはなくなっただろう。『おれ』が消えても、あとは『タカシ』自身の力で実母を排していける。約束どおり、『ミヤ』に体を返そうと思う」
『お前たちは仲間がいていいな。おれにも、理解してくれる誰かがいてほしかったな』 古代において虐げられていた持衰の願いが、寂しく独りで死にたくなかったと叫ぶ死者の望みに紛れて、届く。
兄は少女の手を握りかえした。
「ここにいろ」
伝えなくてはならなかった一言を、伝える。
「お前はここにいていい」
ずっとそばで慰めてやりたいという想いを、伝える。
※輪廻転生とは仏教等の思想の1つで、生き物は死んでも生まれ変わるという考え方です。前世の生き方が、後世で報いや奨励を受ける素養になるという『因果応報』の教えと、多くはセットにされています。
※作中で使用した『貫頭衣』という衣服は、本来は『頭と腕の部分をくりぬいて被るだけの構造』で、ほつれのある織物(麻等)には向きません。ただ、正式な名称の『筒型衣』は一般的ではないため、こちらの表現を使いました。
※『父』の読みを『ち』としたのは、古代において、自分より上位の男性に対してこの名称を使っていたとされるからです。現在の『ちち』の読みは、この『ち』をくりかえしたもの。『母』については資料がなかったため、『母神=カガ神』をこじつけて『か』と呼ばせています。




