漆黒 2
カガ神との融合を深くしようと自らの肉体を痛めつける持衰に、美耶は何度、「もうやだ!あたしには神様と一緒になるなんて無理!」と訴えただろうか。そのたびに、持衰は「お前は出てくるな!」と厳しい言葉を投げつけた。
望まない人格に支配されることを絶望して、自ら生命を絶とうとすれば、理解できない周囲からは病院行きを強要された。
何も言えない。何も言っちゃいけない。
自分を抑えて、これ以上の失望を重ねないようにと、日々、構えつづけた。
いつかは死ねるから。今日と明日と明後日が我慢しかない日だったとしても、いつかは楽になれるから。
すべてから開放される日を心待ちに、我欲を消して、密やかに生きることを己に課した。
なのに、持衰はその安息さえ奪っていく。
苦痛と悔しさに溢れてくる涙を止めることができない。なぜ自分がこの世に存在する必要があるのか。早川家には出来のいい兄がいて、美耶の居場所などない。持衰と共有するこの器には、美耶の意志は反映されない。
……いいなあ。みんな、楽しそうで……。
誰も自分の孤独に気づいてくれなかった。すぐそばで羨ましくてしかたがない感情を抱えていたのに、誰もそれを気にかけてくれなかった
あたし、間違えて生まれちゃったのかな……。
自分の誕生には喜びがあって、自分の人生には意味があって、自分の終焉には泣いてくれる人がいて。そんな生き方をしたかった少女は、でも。
理想だったけど叶わないね。
諦めて、自嘲して。
また感情を抑えこむために、目を閉じて、嗚咽をこらえた。
寂しいなあ……。
大気に寂寥が満ちる。
こんなにたくさんの人間がいるのに、誰も仲間になってくれないんだ……。
耳の奥に嘆きが響く。
最初は自分の感情かと、美耶は思った。ちょうどシンクロした想いを抱えていたところだったから。
でもその悲しみは少女のものではなかった。
ゆっくりと目を開け、己にかぶさるように伏して慟哭を抑えている青年を、見る。
……どうしたんだろう……。
なぜ彼が泣いているのかがわからない。意味もなく攻撃をしてきた暴漢としては、あまりにも予想外の行動だった。
わずかに体をずらし、青年の泣き顔に正面から相対する。
すると、彼は言った。
「ごめんなあ」
ますます混乱した美耶は、反射的に頷きかけてから、
「も、もう……その……痛いことしないでください……」
と消えそうな声で懇願した。
松原裕貴と名乗った彼は、崇志の高校の同級生だと説明した。
そして、
「オレ、早川に怪我させて、そのまま放ってきたんだ。早く戻らないと。結構、深い傷だったし」
とつけくわえた。
未だ整理のつかない美耶は、兄の状況に、再度、パニックを起こす。
「お兄ちゃん、近くにいるんですか? あたし、探してるんだけど見つからなくて……」
「うん……あのさ……」
歯切れの悪い答えを返しながら、裕貴は立ちあがって、後方の藪を指さした。
「あのへんだと思う……」
『あのへん』とはどういうことだろう?
ずきずきと体力を蝕む痛みに耐えながら、美耶は裕貴が分ける道なき道に従う。
なんか……大丈夫かな。どんどん奥に行っちゃうけど……。
信用の置けない彼に案内を任せる不安に、つい足が止まりがちになる。そのたびに『お兄ちゃんを見つけなきゃ』と気持ちを奮いたたせた。
考えてみればおかしなことだ。
崇志は、美耶にとって、早川家の子どもの地位を争う強敵だったはず。しかも、父母からは『お兄ちゃんは可哀想な子だから、誰よりも大事にしてあげなくちゃ』と言われていた。
お兄ちゃんがいたから、あたし、お父さんとお母さんに愛してもらえなかったんだよね……。
その結論は疾うに出ているはず。それなのに、美耶には兄を排除するという選択肢がない。
だって……お兄ちゃんが大事にされると嬉しかったんだもん。
実の親を亡くしていながら、同情を請うこともなく、新しい家族の中で『美耶の兄』としてふるまおうとする崇志に、敬愛の念を抱いていたからだ。
先を行く裕貴が、前方に視線を向けたまま、ぼそりと呟いた。
「早川はさ……その……オレのことが嫌いだと思うんだ……」
裕貴と兄の関係に、いま1つ理解の及んでいなかった少女は、
「……そうなんですか?」
と素直な返事を返した。
「うん」
裕貴が力のない声で答える。
「オレは早川の仲間になりたかったんだけどね……」
そう言ってうつむく彼を見て、美耶は先刻の彼の慟哭を思いだした。『こんなにたくさんの人間がいるのに、どうして誰も仲間になってくれないんだ』。
あたしは……仲間……になってもらってたような気がする……。
過去をふりかえって、美耶は、裕貴と自分との違いを改めて認識した。
お兄ちゃんは、あたしのために、お坊さんになるのをやめるって言ってくれたし。
持衰に乗っ取られる直前に兄と交わした約束を回想する。
お母さんは、持衰があたしを傷つけるって言ったときに止めてくれたし。
数時間前の階段に繋がれていたときのことを思いだす。
お父さんは、東海林さんにいじめられていたときに本気で怒ってくれたし。
1年前の出来事を記憶から引っぱりだす。
あたし……、誰も信じなかったから寂しかったけど、信じたら、あんまり悲しくないかも……。
自分を苛んでいたのは自分自身の殻だった、と、少女は気づく。
前を歩く細身の青年に同じ感覚を持ってもらいたくて、美耶は語った。
「お兄ちゃんは誰かを嫌いになったりする人じゃないですよ。友だちになりたいって松原さんが普通に伝えてくれたら、いいよって言ったと思う」
裕貴は、うつむいたまま、少し歩みを緩めて、
「ああ、そっか」
と同意した。それから、
「オレ、そういうこと、言ったことがなかったよ」
と答えた。
オレ、早川に見捨てられちゃいけないって、そんなことに必死だったんだな……。
沈んだ声で己を省みる裕貴に、少女は近づいて、背に手を添える。
あたしも一緒……。お兄ちゃんに、家を出ていかないで、って素直に言えばよかった……。
口には出さず、裕貴と思いを共有する。
人間というのは、ほんの1つ、正答を導きだしただけで、生き方を変えることのできる生き物なのだ。
人の中に存在する闇と光の本質は、しょせん、どちらか一方に偏ることはない。陥れば立ちなおる。弱れば鍛えられる。
すべてのものに神が宿ると信じられていた古代では、人も神と同じものだった。荒魂を持てあまして暴れ、荒び、破壊し、悔恨する。そして、和魂へと昇華し、労り、慈しみ、繋がり、欲した。
繋がったシルエットの青年と少女に向かって、生ぬるい死霊の風が吹き荒れる。けれど、その干渉は、正常な心をとりもどした2人には届かなかった。
奥の院の神体がどれほど歯噛みしようと、荒魂のみを持つわけではない人間を操作しつづけることは、不可能なのだ。