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黒い神  作者: 小春日和
死者の想念
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堕落

 鉄の味が口に染みた。

「ちくしょう……」

方向を見失ったまま、裕貴は、鼻から垂れおちる血を押さえて呟く。

 結構な深手を負わせたと思ったのに、崇志は反撃してきた。顔面への直撃はなんとか避けたが、硬い石は、裕貴の鼻骨を折り、防御に出した左手を派手な擦過傷で引き裂いた。

 藪が触れるたびにびりっと痛む手の甲をズボンにあてがい、刺激から怪我を守る。

「ふざけんなよな、あの馬鹿。死ねっ!」

最初はこもっていた通りの悪い声は、激高する彼の感情とともに、音量を上げていく。


 裕貴が早川崇志を気にしだしたのは高校に入って2ヶ月ほどのころだった。当時はさほど体躯のいい少年ではなかったが、それでもきびきびとした動作とよく笑う表情のおかげで、教室の中には、いつも彼を中心とした輪ができていた。

 いいよなあ、ああいう天然で人気のある奴って。

 最初はただの羨望だった。


 準大手企業の重役を務める裕貴の父親は、常日頃から息子にこう言いつけていた。『人望は成功の鍵だ。人望のない人間は何をやっても徒労に終わる』。

 だから裕貴も対人関係においては人一倍気を使ったつもりだったのだ。ところが、己の労力に見合うだけの数の友人は手に入らない。興味のありそうな玩具を貸しだしてやったりもした。相手の話題に合わせて情報を集めてやったりもした。それなのに、早くて数週間、長くても半年ほどで、せっかく吸い寄せた連中は離れていってしまう。

 自分の中の何かが原因だということはわかる。だがそれを特定することができない。付き合いのあった人間に聞いてみたこともあった。『お前、必死すぎ』。彼らのほとんどはそう言って嘲笑った。

 必死で何が悪い? 一生懸命になることはいいことだろ?

 己の信念に反する評価を突きつけられるたびに、裕貴は相手を切りすてた。

 お前らみたいないい加減な生き方しかできない奴らに声をかけたのが間違いだった。

 と。


 自分には大勢と同調する能力がない。それに気づいてからは、裕貴も無理に友人を増やそうとは思わなくなった。

 ただ、同じ教室の中に、己の求めている環境を、いともたやすく構築している人間がいる。それを目の当たりにすることは、やっぱり辛かった。

 もしかして、上手くやれば、あの仲間に入ることができる?

 それを期待して崇志に関する情報を拾いつづけた。

 早川が食いついてくるような話題を提供すれば、きっと仲間だと認めてくれる。

 話しかけるまでに1年以上がかかった。

「へえ、早川って坊さんになりたいんだ? オレ、坊主って職業のこと、少し調べたんだよね。税金払わなくていいってマジで? どんだけ楽して儲ける気なんだよ。お前のそういう打算的なとこってみんな知らないだろ。だから人気があるとか勘違いしちゃうんだよな」


 オレは早川に、あいつの本質を教えてやっただけなのに!

 当時のことを思いだすと、いまでも怒りに体が震える。手近の樹木を殴りつけて、裕貴は剥きだした歯の間から荒い息を吐きだした。

 その発言後、崇志本人はもちろん、取り巻きからも自分は無視されるようになった。いや、学校中が敵意の目を向けてくるようになった。

 早川が言いふらしたんだ! オレが一方的に悪くなるように!

 にやついた嘲笑を浮かべながら裕貴の悪口を振りまく崇志の顔が、それから何年も脳裏から消えなかった。


 高校卒業後に行われた同窓会で見つけた夢璃。崇志の交際相手だということは知っていたが、特に興味を惹かれる対象ではなかった。その席で『早川くんとはまだつきあってるの?』などという女同士の会話を耳に入れることがなければ。

 早川の恋人(カノジョ)かあ。でも……。

 東海林夢璃の噂は届いていた。貞操にだらしがなく、浮気は当たり前。誠実な交際はできない相手だと。

 そんな女とつきあうなんて早川もたかが知れてる。

 自分でも惨めになるほどの矮小な理屈でプライドを満たしていると。

 夢璃が級友の質問に答えるのが聞こえた。

「うん、つきあってるよ。たぶん、結婚すると思う」


 そんなところまで決まってるんだ、こいつら……。

 驚きを隠せなかった。悪評の高い夢璃と、裕貴に対しては冷たいが、一応の人望を備えた崇志。バランスの釣りあわない関係に感じたからだ。

 でも、よく見ると男好きのする容姿を携えた夢璃。上気した顔で恋人との将来を語る仕草は、崇志が惚れこんでも不思議ではない相手のように思えた。

 早川の恋人(カノジョ)かあ。それなら……。

 夢璃に近づけば、もう1度、崇志の仲間に加えてもらう夢を見られるかもしれない。

 それに、もし東海林が早川と別れてオレと結婚することになったら、オレ、早川より上に立てるんだな……。

 悔しがる崇志の前で優越の笑みを晒す自分を想像して、裕貴は、長年の憂鬱が晴れる気分になった。


 その後はなぜか順調だった。ダメ元で近づいた夢璃からは、

「崇志からメール1本でふられた」

と泣きつかれた。

「あたし、独りになるのダメなんだよね。崇志みたいな連絡もくれないような人とは、最初から合わなかったみたい」

淋しげに目を伏せる彼女の様子を見ながら、『これは早川の不誠実さが作りだしたものだ』と憤った。『自分は早川のような薄情な人間じゃない』と奮起すると、夢璃への慰めにも自然に力が入った。

 自らが気に入って交際していた恋人との関係は、日増しに色褪せていった。

「ねえ、別れるって電話してよ。いまここで。あたしの目の前で」

夢璃の要求に、特に抵抗もなく従った。恋人の罵詈雑言を電話口で聞きながら、『早川も東海林にこうやって罵られちまえばいいのに』とほくそ笑んだ。

 結婚を前提としていた恋人が出した、

「ねえ、わたし妊娠してるかもしれないんだよ……」

の切り札には、

「だから何?」

と冷静に返せた。

「いまさら動揺させようたって無駄だよ。お前が面白くねえのが悪いんじゃん?」

100点満点の回答をすると、相手は押しだまって泣きはじめた。

 ほら、オレはお前たちごときには簡単に勝てるんだよ。

 自分の力が正当に評価されるのが嬉しくて、高揚感が止まらなくなった。


 それなのに!

 ずきずきと不愉快な痛みを炙(あぶ)りだす左手を忌々しげに握りしめて、裕貴は、また、

「ちくしょう!」

と激高した。折れた鼻から流れてきた血だまりを乱暴に吐きだす。

 東海林は早川とよりを戻そうとした! あの馬鹿女! 早川が誘ったんだ! オレを羨ましく思って、邪魔しようとしてるに違いないんだ!

 己の幸福感を乱すために理不尽な攻撃を仕掛けてくる夢璃と崇志という人間に対し、裕貴は強い殺意を消すことができない。

 オレが何かしたか? あいつらに悪いことなんかしたか? ぐだぐだして、自分じゃあ上手く解決もできないあいつらを助けてやっただけだろうが。なんでオレがこんな気分にならなきゃいけないんだ?

 感情に任せて振りあげた警棒が、すぐ傍(そば)の大樹を盛大に叩き抉(えぐ)った。冬枯れに必死で耐えていた生命が、悲しげな泣き声を響かせる。


 正常な生命を壊す裕貴の狂気は、歪んだ死者の想念に力を与えていく。

 ねじれてしまった母の執着は、奥に眠る禍々しい神を喚(よ)びおこしていく。


 森に漂う獣臭は、いつのまにか死臭へと変わっていた。吐き気を催す穢れの中心地に残されてしまった兄には、もう救われる術がなかった。


「……そろそろ戻るか」

肉体のダメージの軽減を自覚した裕貴は、崇志を閉じこめている結界の内側へと、再び足を向けた。理屈はよくわからないが、隠れんぼの鬼のような気分で相手を探すと、突然、目の前に現れるのだ。

 未だに抵抗を用心しなければならない崇志に対し、小さく舌打ちをしながら藪を分ける。

 重苦しい空気が詰まったような聴覚は、上手く音を拾わない。闇の中、視界も利かない。それでも自分の優位は信じられた。

 努力もしないで恵まれる奴なんて、カミサマも殺していいって思ってるよ。

 自己中心的な妄想が、裕貴の『正しさ』を後押ししてくれるから。


 けれど、その絶対的な妄信の中に割りこんできた音があった。

 耳を澄ますと、案外とそばから聞こえてくる、透明な少女の声。

 兄の名前を呼ぶ異端の存在に、荒魂を抱えた森が騒ぐ。

 早川の知りあい?

 真っ暗な空間を恐れげもなく近づいてくるそれは、地を滑るような不思議な歩き方をしていた。

 ……女か。

 身体的に優勢であることを見とった裕貴は、その正体のしれない侵入者に対して、躊躇することなく武器を構えた。


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