蒼然
隠れているだけだというのに呼吸が乱れる。息苦しい。
漂ってくる動物の臭気に滅入りながら、崇志はそっと首を伸ばした。藪の中から覗きみた山道には、相変わらず裕貴の姿は現れていない。
諦めて帰った? あの剣幕で?
自分を殴り殺すほどの勢いを感じただけに、追ってこない恋敵に不審なものを覚える。
「これなら逃げずに決着をつけたほうがよかったな」
落ちついて行動すれば、裕貴から凶器を取りあげることは難しくなかったはずだ。とっさのことに慌てた己を恥じた。
いや……。
でもすぐに考えなおす。
この森に逃げこんだのは松原から離れるためじゃない。実母さんが呼んだからだ……。
荒魂に成り果てた実母が、執着する息子を操作して、この森の奥の『真髄』に向かわせているのだ。
少しの思案のあと、崇志は慎重に立ちあがった。
「実母さんの思うとおりにするぐらいなら、松原と闘りあったほうがマシだ」
言い捨てて参道に戻ろうとする。
その瞬間、すぐ背後に気配が立った。
ふりかえって確認する間もなく、痛恨の強打が右肩関節に打ちおろされた。崇志は呻き声を上げながら転がり崩れる。
無機質な裕貴の声が上方から降ってきた。
「ああ、外した」
次いで、
「頭、割ってやろうと思ったのに」
闇の中に白い歯が見えた。
反射的に、兄は、1番融通が利く位置にあった左足で裕貴の腿を蹴りとばした。もともと重量差がある崇志と裕貴。余裕の表情を見せていた相手は、一瞬にして苦痛を浮かべ、後方の藪の中によろけながら尻餅をつく。
松原が立つ前に体勢を直さないと。
崇志は焦りを押し殺して身を起こす。が、
「っっつ……!」
警棒で粉砕された右肩の神経が激しい痛みを訴えた。バランスを崩しそうになるのを、とっさに伸ばした左手で頑丈な草木を掴み、持ちこたえる。
メタリックな裕貴の凶器に蒼い狐火が映っていた。足を庇いながら、先に起きだした彼は、
「だからお前は嫌いなんだよ」
と吐き捨てた。
「俺だっ……」
『俺だってお前なんか好きだったことねえよ』と挑発を返そうとした崇志の声は、喉に張りついて掠れた。
武器まで用意した裕貴には本物の殺意があるのだろうか。誰かを殺したいと思ったことのない崇志に、その判別はつかない。心の中には未だに『これは喧嘩だ』と認識する甘えがある。けれど、恐怖心だけは膨れていく。
そうだよ。実母さんは俺を連れていこうとしてる。俺が死ぬのを望んでる。
周囲を囲みはじめた暗い炎は、実母の吐息のような生ぬるい風に揺れていた。
大きく構えた裕貴が警棒を力まかせに振りおろす。右半身の自由を失った崇志は、思わず頼みの綱の左腕を盾にしてしまった。骨の割れる音とともに、簡単に薙ぎはらわれた防壁。
警棒は、多少の威力を削がれながらも、そのまま崇志の側頭にヒットした。
激烈な衝突の感覚と父母のすさまじい悲鳴。その直後の骨肉を潰す湿った破砕音。
あの瞬間と同質な恐慌が、兄の精神力を打ち砕いた。
顔半分を血染めにしてのたうっている崇志のそばに、裕貴が屈みこむ。
「あーあ。ぱっくり行っちゃってるわ、これ。どうやって始末つけようかな」
そして、そばに生えている雑草を摘みとり、大きく開いた傷口に擦りつける。痛みに反射的に抗った崇志だったが、左腕を動かしたとたんに、別の激痛に苛まれる。
母親として、一生、一緒にいてあげる。
血だまりで塞がっていく耳の奥で、懐かしい声が囁いた。
だから、もうこちらにいらっしゃい。
折れかけた腕を労るように包む、温かい手の感触。
闇に意識を委ねかける。罵倒を続ける裕貴の言葉に耳を貸すことも面倒だった。
どうせ抵抗したってなあ……。
実母はどこまでも追いかけてくるし、裕貴のように自分を憎悪している人間もいる。生きることにしがみつくだけ無駄に思えた。
がつんと顎に鈍い衝撃が走る。
「おい。反応なくなったぞ。何やってんだよ、早川」
嘲笑混じりの声が浴びせられた。
「口ばっかだな、お前。東海林と一緒に死んだほうがいいよ。クズが2人減ったら地球が綺麗になるってもんだ」
裕貴は、空気を裂く凶器の音を聞かせながら、今後も暴行を続ける意志を口にする。
何に反応したのか崇志自身にもわからなかった。夢璃に対する保護欲か、それとも裕貴に対しての嫌悪が再燃したのか。
無意識に入った力が右腕を動かす。肩関節へのダメージは、幸い一時的なものだったようだ。
目にも飛びこんだ血のせいで視界が効かない。手探りで地をなぞると、硬い感触に行き当たった。
いざというときのために用意しておいた拳大の石。
握ると同時に。
筋肉質の兄は、出うるかぎりの力を込めて、それを裕貴の顔面に叩きつけた。




