烏木(うぼく)
北の丘陵に位置する稲荷神社へは住宅街を北上してつっきるのが早かったが、晴彦はあえて幹線まで出る遠回りを選んだ。バスの路線を辿ることにしたのだ。
父母がすでに車で巡回したと思われるルートだったが、もし途中で稲荷神の結界が作用したなら、兄の姿は見過ごされたかもしれない。
先刻、崇志と別れたバス停に至る。時刻、21時20分。シャーベット状の雪がアスファルトを埋めている。
「持衰さん、滑りやすいから気をつけて……」
忠告のためにふりむいた少年は、予想外の光景に口をつぐんだ。
少女の体は地面からわずかに浮きあがっていた。
「『おれ』のクニのほうが暖かかった」
急いで着こんできたコートにむきだしの手を隠し、古代の魂はそう愚痴をつぶやく。
「でも持衰さんの時代のほうが寒かったはずやけど」
縄文時代の温暖期から徐々に忍びこんできた冷害によって、持衰の存在した倭国大乱のころはいまよりも厳しい気候だったと、晴彦は学んでいた。指摘すると、持衰は、
「『おれ』の最期は海のそばだった。風は強かったが寒くはない」
と答えた。
少年はふと思いだす。昨日の朝食時、台所で吐き戻しながら『足がない』と悶えていた美耶の様子。
持衰の記憶が蘇ったあの瞬間に、場にあった食材は、卵、野菜、パン……そして魚……。
足を切断されて末期を迎えた持衰の鼻孔に届いたのが潮の香だったとすれば、いまもその類の匂いに拒否反応を抱くのも無理ないのかもしれない。
期待した兄の気配のない無人のバス停に足を止め、晴彦は、少女の手に、上着から取りだした使い捨てカイロを握らせた。
「……持衰さんは、生まれ変わってよかったと思ってる?」
不遇の時代に翻弄された薄幸の存在を労ると、
「……お前たちが、『おれ』を邪魔扱いしなければ」
との返事が返った。
微笑して、少年は、
「それはない」
と請け負った。
次いで、晴彦は、今まで伝える機会のなかった兄の本心を持衰に聞かせてみることにした。
「崇志兄も持衰さんのこと『可愛いやつ』って言ってたよ」
照れるかな? それとも喜ぶかな? 意地っ張りの持衰がどんな反応を示すのか、楽しみに待つ。
すると、予想以上に大きくうろたえた持衰は、
「そんなわけはない! 『おれ』は穢れた身を持っている。『タカシ』に好かれるような立場ではない!」
と真っ赤になって反論した。
両性具有という過去の己の身体を恥じて、崇志の親愛をはねつけようとする持衰。
両腕で隠すように自分をかき抱く少女の仕草は、むしろ、年ごろの女の子が、恋愛をしている相手に対して自信を喪失している姿に、晴彦には見えた。
……持衰さんが崇志兄を好きになる理由はわかるしなあ……。
美耶というフィルターを通してだったが、兄は持衰に多くの益をもたらしたはずだ。転生の自覚から不安定になっていたころに唯一の味方になってくれたこと。蛇神の神域での凶事から救ってくれたこと。
実際に、持衰は、「『タカシ』に『おれ』を好きになってもらうことはできるだろうか」と期待していた。その『好き』というのが、単に『身内として認めてほしい』という意味なら、転生前の身体的欠陥のことなど、いま、持ちだしはしないだろう。完全な女性として見てもらえるかどうかを不安がっているからこその言葉だと思う。
けど、そうなると……。
少年は兄の女性遍歴を記憶から引っぱりだす。意外に異性受けのいい崇志は、大学でもその手の誘いに事欠かないようだった。真剣な交際こそは聞かなかったものの、複数の女友だちの話は耳にしている。
東海林さんも、どっちかいうと飾ることが好きなタイプみたいやったし……。
兄の好みの傾向は、やはり夢璃のような女性らしさの際立ったタイプだった気がする。
目の前の持衰は、もっさりとしたベージュのダッフルコートの下にスエットを着込んだ、『女性らしさ』とはまったく無縁の出で立ちをしていた。
晴彦の複雑な表情に気づいて、持衰は怪訝な顔を返しながら聞く。
「なんだ?」
「……持衰さん、もうちょっと可愛い格好せん?」
思わずフォローをしかける少年。
それに。
古代の潔癖な巫女は、やっと回復しはじめた機嫌を、またあからさまに損ねた。
「お前は不純すぎる。少しは『タカシ』を見習え」
……持衰さんの中では、崇志兄が聖人みたいに見えるんかな……。
恋は人を盲目にするらしい。目の前の実例を見ながら、晴彦は、兄の実像に気づいたときの持衰の拒否反応を想像して、深い深い溜息をついた。
次のバス停の名称が『稲荷神社前』であるのを確認した少年は、
「やっぱり崇志兄は稲荷さんに足どめ食ってそうや。持衰さんには、まだ崇志兄の居所がつかめんのやろ?」
と確認した。持衰が未だに崇志を認知できないのなら、彼は稲荷神の領域にとりこまれてしまっていると考えてもいい。そう思えたから。
持衰は、寒そうに縮めていた身を、いったん広げた。両手を中空に彷徨わせ、その中に漂う兄の痕跡を捉えようとするような仕草だった。
が、すぐに腕を下ろして首を振る。
「……実母の気配が濃すぎて『タカシ』を隠してしまっている。祓の前なのに、実母を抑えるカガ神の力が弱まっているようだ……」
「え? なんで?」
大祓までの時刻に余裕を見ていた晴彦にとっても、持衰の言葉は少々のショックを伴った。
大祓までに崇志をこの土地から逃さなければならなかった理由。それは、氏神制度に起因する。
氏神というのは、その土地を守護する神のことだ。日本の村落や集落などのコミュニティは、地域ぐるみで、この氏神を信奉することが、ほぼ慣例化している。祭りの誘いや札の購入などが観覧版で回されることがあるが、あれは氏神を祭る氏社の一員であることを示していた。
つまり、氏神は、自分の守護するエリアに住む人間の信仰を強制的に集めることができる立場なのだ。そして、早川家のあるこの土地の現在の氏神は稲荷神社。
大祓は厄災を弱体化させる儀式である。稲荷神社にとっての『厄』とは、稲荷神社がこの地に勧請された原因にもなった黒い蛇神のこと。大祓が始まってしまえば、ずっと実母の害を防いでくれていた黒い神が弱ってしまう。相対的に実母の怨霊も肥大化する可能性が高い。
でもまだ……。
晴彦は稲荷神社へと歩を進めながら、持衰の話の矛盾点を熟考していた。
年越の祓は、通常12月31日の夕刻から行われる。だから、未だほぼ1日の猶予を残しているはず。それなのに、なぜ、もう蛇神の弱体化が始まっているのだろう。
もしかして、ここの大祓は前倒ししてる?
昨日の稲荷神社の様子を思いだす。正月を間近に控えているというのに、社務所は無人だった。本殿の扉もまめに手入れされた痕跡がなかったように思う。
兼務神社だから、宮司さんの都合に合わせてしまってるんやろうか……。
宗教法人の規定によると、神社には必ず宮司が管理者として登録されなければならない。けれど常駐する必要はないので、他の社の管理を兼任している神職も少なくない。正月という繁忙期に備えて、行事を前倒し、もしくは縮小するところもあるのかもしれない。
もう大祓が終わったあとやったら、オレ、実母さんに崇志兄を渡してしまったようなもんや……。
悔恨に苛まれながら、それでも、気丈に平静を保った少年は、
「ちょっと急ぐね。もしかしたら、まだ実母さんの力を抑える方法はあるかもしれんから」
と、空気に混ざった悪鬼の気配に顔を険しくしている持衰に呼びかけた。
「『おれ』に実母を退けよと言う気はないのか?」
自らの肉体を依り代にして蛇神を招魂し、その力で魔を霧散させるという持衰の意見に、
「ないよ」
晴彦は即答する。
「蛇神さんを降ろしたら持衰さんがどうなるかわからんし。実母さんはオレが何とかするから手を出さんで」
釘を刺された持衰は、
「お前がいなければ簡単なのにな」
と溜息をつきつつも、
「『ミヤ』の身まで危うくすれば『タカシ』に怒られるか」
と諦めたように従った。
7分ほどで、次のバス停の『稲荷神社前』に到着した。重い雲が溶け落ちる雪は小康状態を迎えている。それでも、グリップの弱いスニーカーで歩くのには苦労する。
晴彦が四苦八苦していると、急に踵が軽く持ちあがった。
「お前にはこのあたりまでだ。『おれ』自身のように浮いたりはできない」
半歩先に進みでた持衰は、振りむきもせずに、そう説明する。
「……ありがとう」
協力が得られるとは思いもしなかった少年は、驚きの表情に微笑を混ぜて礼を言った。
野暮ったいコートにかぶる持衰の漆黒の髪は、美耶のときとは違うぱさぱさの質感を留めている。1800年前の海風に晒されていた前世を記憶しているのかもしれなかった。スエットの下から覗く靴下越しの足首も常人離れして細い。全身が浮いていなければ、体重の重みでぽきりと折れてしまいそうだった。
そんな後ろ姿を見るともなしに目で追っていた晴彦は、超常的な能力を見せつけられたばかりだというのに、持衰に対してまた強い不安に駆られた。
伸びた背筋と確かな足取り。それがあまりにも肢体の頼りなさと釣りあわない。
児童のころに友人たちと遭遇したダンボールの中の捨て猫。ぼさぼさの体毛と痩せ細った手脚の痛々しい姿でありながら、その瞳には強い生命力が宿っていた。
愛くるしい顔と甘ったるい鳴き声に、「これなら誰かに拾ってもらえるよ」と場の一同が踵を返した翌日、猫は、最後の水分を絞りだしたような涎を口元にこびりつけて死んでいた。
『動物は死ぬ間際に一瞬だけ輝くんですよ』と言ったのは誰の言葉だったか。
背後からの視線を感じたのか、持衰はふりむくと、怪訝な表情で少年に尋ねた。
「なんだ?」
強い感情や決意を秘めると冷徹な態度になる晴彦の癖を見とがめる。
「……持衰さんは猫よりはしぶとい……はずやな」
妄想の一端を口にする少年に、
「猫?」
理解が及ばず、首をかしげる。
稲荷神社の階段を上がる。午後9時半。
境内に光源でもあるのだろうか。石段に積もった薄い雪が蒼い反射を放っている。
「……ここは息苦しい」
持衰は呟いて中腰に屈んだ。地面に落ちた陰影の一部が、ひょろりと細く鎌首をもたげて、少女の足首を掴もうとしていた。それを祓って霧散させる。
「……いまのは何? 昨日もここで同じものを見たよ。オレは蛇神さんやと思ってたけど」
自らも妖かしを退けながら、晴彦は、昨日の崇志捜索のおりに現れた怪異を手短に説明した。すると、持衰は、
「あれは実母の手だ。逝くときに今生に残した想いが、あのような形になって現れているのだ」
と答えた。
少年がちらりと聞いていた崇志の母の最期。身を轢き潰されながら幼い息子に伸ばしたのは、今の陰の形と同じく右手だったと憶えている。
死者の顔色のような悪意を持った色彩が、少年と少女をゆっくりと包囲していく。それにともなって下がる気温。
「持衰さん……大丈夫?」
寒がりの持衰を気遣って、晴彦がそう声をかけると、
「この温かいのをもっとくれ」
と、さっき渡した使い捨てカイロを袖口から覗かせた。
「あはは」
急に幼くなった物言いに、思わず笑い声を漏らす少年。
崇志を見つけたときに必要になるだろうと、鞄に詰めこんできた大量の防寒着。それを分けあたえると、冷気に青ざめていた少女はほっと表情を緩ませた。
そういえば、ここに来た初日にも、美耶ちゃんとこんなことやったなあ……。
晴彦は当初を思いかえす。あのとき、黒い蛇神を抱く丘に向かったときの美耶の顔は、不満の色よりも不安のほうが濃かった気がした。
ねえ……もしかして、今回来てくれたのって………あたしのため?
自分の意思とは無関係に翻弄されていく人生に恐怖を覚えていた彼女が、初めて笑顔を見せたのは、晴彦が協力を宣言したすぐあとだった。
異常になっていく自分のことを、もう悲しいとかあんまり思わないけど……、でも、あたしのことを理解してもらえたら嬉しい……。
その望みに対して『うん。任して』と答えた責任は、けっして軽くない。少年は改めて気を引きしめる。
兄の大きな手袋をまとって、現実のぬくもり以上の満足を得ている様子の持衰に向かって、
「行こうか、美耶ちゃん」
と誘いかけると、
「うんっ」
一瞬だけ元気な少女の笑顔が覗いた。
石段を上がりきると、予想外の光景が広がっていた。
正面、本殿の右に、大きな柵囲いが組まれている。中には使い古した縁起物が無造作に放りこまれていた。注連縄、鏡餅の容器、守礼。人形や乳児の服などもある。
「お焚き上げの準備やな。まだ大祓は終わってないみたい」
ほっと安堵の息をつく晴彦に、持衰が、
「『おたきあげ』とは何だ?」
と聞く。
「古い物に憑いた神さんを焼いて祓う神事や。大祓で行うはずやから」
まだ焼かれる前のそれらを見ながら答える少年に、持衰は、
「神を降ろしたばかりに、これらは焼かれるのか……。哀れだな……」
と呟いた。
目を転じると、社務所の辺りに懐中電灯の明かりが彷徨っているのが見えた。年配の男性と思われる声も複数聞こえる。
「人がいるね。明日の準備に来たのかも」
よく見ると、カーテンを閉めきった社務所の奥からも、わずかな明かりが漏れている。大晦日という重要な行事を控えて、さすがに関係者が集まりはじめたようだ。
「崇志兄を見かけてないか、話を聞いてくるよ。それに大祓の日程も調べんと」
持衰をお焚き上げの柵のそばに残し、晴彦は集団に駆けよった。
「すみません」
と声をかけると、社務所の前に固まっていた5人ほどの集団は、驚きの声を上げてふりかえった。本殿の方向に懐中電灯の明かりを向けていた彼らは、背後から現れた異端の少年に、このときまで、まったく気づかなかったようだ。
一様にラフな普段着を着こんだ70歳前後の老人たち。稲荷神社を管理する宮司というより、地元の協力者といったところか。
礼儀正しく頭を下げた晴彦は、手近にいた1人に向かって尋ねてみた。
「4時間くらい前に、知りあいがこの神社に来たみたいなんですが、見てないでしょうか?」
「いや……知らんなあ。なあ?」
他のメンバーにも視認してくれた彼は、情報がない雰囲気を感じとって、こう答えた。
「社務所には昼から誰かしら詰めとったし、その時間なら境内での作業もしとった。誰かが来たら気づいたと思うがね」
つけ加わった事実に、崇志の行方をここだと確信していた少年は、落胆を隠せない。
見回した小さな境内には隠れる場所など見当たらなかった。拝殿もない、小さな本殿を抱えるだけの極小の敷地。周囲の鬱蒼とした鎮守の森だけが、深い奥行きを感じさせる。
稲荷によくある奥の院も存在していないようだ。
色の禿げた赤い鳥居が列挙する向こうに、持衰の髪がなびくのがかすかに見える。
突然、老人の1人が、
「あ!」
と声を上げた。
「もしかして、御札を盗んだのは、その知りあいとやらかね?」
「御札って……荼枳尼天の真言札のことですか?」
思わず聞きかえした晴彦に、周囲の厳しい目が注がれる。
懐中電灯が照らす本殿は、扉が大きく開け放たれ、空っぽの中身を露呈していた。
晴彦が破ってしまった神体を、彼らは探しまわっていたのだ。
集団に叱られながら頭を下げまくる晴彦を遠目に見つつ、持衰は呆れた様子で呟いた。
「愚か者」
社務所から飛びだしてきた神職と思われる白小袖の老人が、少年を社務所内にひっぱっていく。
たしかに、知識は豊富でとっさの判断も悪くない。だが、なぜか、頼りにしようとすると、こんな形で裏切られる。
「あの者を当てにしてはいけないということだ」
まるで、自身の中の美耶に言い聞かせるように断言する古代の巫女。
本殿背後の森から漂う、強烈な獣臭。これが現実の生き物の匂いでないことは、さっきから気づいていた。
「狐神とは違うかもしれんな……」
もっと大きな霊異の存在を感じとり、少女の肌が粟立つ。
「でも……」
逆に、これほどの荒魂が潜んでいる神域なら、兄を隠すぐらい簡単にやってのけるだろうとも思う。
わずかに口の端を上げ、笑みを作る持衰。
「『タカシ』に会えるかもしれないのだな」
逸る気持ちに後先を考えられず、墨染めの森に向かって不用意な1歩を踏みだす。
『ハルくんを待とうよ』
慎重に提言する美耶の意思も届かない。
※氏神というのは、もともと土地の権力者一族を守護する閉鎖的な神様のことでした。それが戦国期になり、権力者の入れ替わりが激しくなるにつれ、『土地自体の守護神である産土神』と混同されるようになっていきました。現代の地域に絡んだ信仰は、むしろ産土神の性質を表しています。
※お焚き上げとよく似た神事に左義長というものがあります。これは1月15日前後に行われる浄火の儀式。地方によってはひとつにまとめられることもあります。




