間隙
裕貴がふりあげた腕を下ろすのと同時に、金属が風を切る怪音が闇を裂いた。とっさに体勢を低くした崇志のすぐ頭上を、銀色の重い質量が薙ぐ。
もたれていた手水舎の太い柱に食いこむような形で動きを止めたその道具は、黒みがかったつや消しのシルバーの、40センチはあろうかという長身の振りだしを備えた三段警棒だった。相当な力で打ちこんだと思われる裕貴が、己の手にダメージを残すこともなく、すぐに構えを直すのを見て、反射的に武器の性能の高さを読みとった崇志は、急いで立ちあがって距離を取った。
この手の通称『護身具』に対する知識はなかったが、いまの打撃音と目測した重量感から、この警棒が護身以上の猛威を奮うことは簡単に予想がつく。頭に当たったら死ぬかな……。漠然とした予想だったが、下肢に緊張感をもたらすには充分だった。再度、振りおろされたスティックの軌跡を、できるかぎり目で追いながら、射程外へと転がりでる。
見回すと、手水舎から社務所を回ったさらに奥、深蒼の闇に沈む鎮守の森の中に、先へ伸びる小径を見つけた。辿った記憶のとおりなら、あのルートは使える。たしか、この稲荷の奥の院までの参拝道になっていたはずだ。
身を返して森に走りこんだ崇志の背に、裕貴の、
「あ、馬鹿野郎!」
の罵声が飛ぶ。
体側を掠めるほどに迫る枝葉を跳ねよけながら、兄は傾斜を駆けあがった。昼食を抜いていたことが幸いした。身が軽い。
背後に裕貴の気配は、まだない。薄明を残していた境内とは違って、森の中は真の闇だ。躊躇しているのかもしれない。
行く先がわかる……。
ほぼ利かない視界の中で、自分の足元を認識できる理由を、一瞬だけ考えた。けれど。
まあいいか。
すぐに思考を放棄する。朧な面影だった実母の容姿が鮮明になろうとしていた。死者の世界に足を踏みいれかけている。そんな事実に気づくのはまっぴらだった。
このまままっすぐに進めば奥の院に着く。小さな祠と古い狐の坐像が迎える狭い空間を、なぜだかくっきりと頭の中に思い描いた。訪れたのはだいぶ前のはずだ。いや、そもそも、足を運んだことがあっただろうか。
……また……。
実母にコントロールされて、自分が不用意な場所に向かっているのではないか。その危惧が崇志の足を止めた。
この神社は荼枳尼天と実母の棲息域だ。どう行動しても、有利になるのは彼女たちに違いない。
奥の院は、参拝目的の本殿と違って、死者の領域の扱いになる。霊魂の本来の居場所は、むしろそちらであると考えるほうが自然だった。
ただ。
荒魂に堕ちた実母さんを迎えいれる神ってのは……もともとの神格が悪鬼に近いんじゃないのか……。
そのことに、崇志はやっと思い至った。
荼枳尼天を奉じる稲荷神社は少なくない。伏見稲荷と同じく、日本三大稲荷のひとつの豊川は、未だに神仏習合の寺社である。正式な名称が『円福山豊川閣妙厳寺』という寺名であることからもわかる。
つまり、現代でも広い信仰を集めている荼枳尼天が、死者の怨念に積極的に加担するなどということになれば、日本中のあちこちで呪いの発動が起こるはずなのだ。ところが実際に呪詛の効果が社会に漏れでることはない。
人の口に上りにくい話題である、という一因はあるだろう。だが、今回の崇志のような現象が各地で起こっているとすれば、どこからか信憑性のある経験談が語られても不思議ではない。それが皆無ということは、本来の荼枳尼天にはここまでの非情な悪性はない、ということなのではないだろうか。
……この稲荷の守護仏が通常の荼枳尼天じゃないとしたら、奥の院にはその本性が祀られているんじゃないか……?
稲荷の深層に導かれる自身の行動が、実母や荼枳尼天の意志だとしたら、彼女たちはその『本性』と崇志を引きあわせようとしているのではないか……。
そして。
それを見た俺はどうなるんだろう……。
荼枳尼天の祟りが語られない、もうひとつの理由を思いついてしまう。
彼の女仏の呪詛があまりにも強力で、被害者はすべて口を開く状況を奪われているのではないだろうか……。
どうする……。
奥の院で最大の力をつけた実母と対決するか、それとも、ここに留まって裕貴を迎え撃つか。
左右に広がる木立に目を移すと、冬枯れにもものともしない頑強な藪が、崇志の腰のあたりまでの高さを保って伸びている。
……隠れるか。
大柄な身体を器用に潜ませた青年は、万一見つかったときのために、手元に拳大の石をひき寄せた。
※『振りだし』とは警棒のグリップ以外の部分です。『三段警棒』は三段階に伸び縮みする警棒のこと。縮めれば20センチほどになります。
※説明の重複になりますが、荼枳尼天を奉じるのは、生粋の稲荷神社ではなく、寺と融合した寺院です。




