黒耳(こくに)
夢璃からの電話で、さらに不安を募らせた様子の美津子が、
「せめて駅まで崇志の不在を確認しにいきたいの」
と父を急かした。とっくにこの土地を離れているだろう兄を追うのに、その行動は不毛すぎる。
「行くのなら京都まで行くつもりで出よう」
と諭されて、母は急いで身支度にかかった。
持衰と2人で留守役に配される予定の晴彦が、玄関先で天候を確認している父に向かって言う。
「京都に行く前に寄ってほしいところがあるんです。あの人なら、崇志兄の居場所を知ってるかもしれん」
父は訝しげな顔を返した。
美津子はさっき、『東海林さんは崇志がうちにいないことを知っていたみたい』と話していた。それが事実なら、崇志は自宅を出てから夢璃と連絡を取ったことになる。どちらから繋いだのかはわからないが、もともと近しい間柄だ、その可能性は充分にあった。
夢璃への荼枳尼天の憑依は、昨日、いったん解けはしたが、いままで何年にも渡る長い期間の『つきあい』があったのなら、結局は元に戻ってしまうだろう。その夢璃が崇志にコンタクトを取った……。
いつまでも所在の知れない兄は、本当に京都に向かえているのだろうか……。夢璃という現実的な妨害に気づいた晴彦には、むしろ、崇志がこの土地から無事に逃げられたと楽観するほうが困難になっていた。
崇志兄は、もしかしたら、まだ近くにいるのかも……。
実母、荼枳尼天、夢璃という『荒魂』たちが兄を引き止めているのなら、その場所を特定する方法は、夢璃に聞くのがてっとり早い。
「東海林さんが崇志の居所を知ってるの……?」
母は、抑えてはいたが憤りを隠した声音で問い返した。夢璃への不信感は、異性である崇志や晴彦より、美津子のほうがずっと強いのかもしれない。
自分の想像が間違っていたときのことを考えて、少年は慎重に返事を伝える。
「知っているとはかぎりませんが、電話のタイミングが良すぎることが気になるんです。オレの勘違いの可能性もあるから、東海林さんが知らんって言ったら、それは信じてあげてください」
美津子は、一応は納得した表情で、
「……そうね」
と答えた。
息子の頑固さと律儀さを知っている母にとっては、たとえ夢璃が介在しようと、崇志自身の京都行きの意志は揺らがないと確信できるのだろう。
黙って会話の行方を見守っていた持衰に近づき、母は、しばしの別れを口にした。
「いい子で待っていてね。崇志は、きっと、すぐに見つかるから」
昔から放したら行方の知れない子だったもの。今回も連絡を入れることを面倒がっているだけだと思うわ。そうつけ加えて、先走ろうとする持衰の行動を牽制した。
崇志の卒業アルバムから東海林家の住所を割りだした父母は、しゃびしゃびと水音の雑じる不純な雪をノーマルタイヤで踏みながら出ていった。この地方では雪はほとんど積もらないらしい。
「京都までの道のりには関が原が……」
日本有数の豪雪地が道程の途中にあることを晴彦が心配すると、
「チェーンは持ってるから大丈夫だよ」
父は笑って請け負った。
敷地内から消えていく車の後部座席に、ふと女の背中を見た気がして、少年は慌てて門から走りでる。『安江さん、私たちに祟ったらいいのに……』。母の言葉が思いだされた。車はすでに白い闇の向こうに霞んでいる。
強い胸騒ぎと、崇志を無理に追いださなければこんなことにはならなかったという悔恨が交互に精神を締めつける中、身動きが取れないまま屋外に立ち尽くす少年に向かって、家内から持衰が大声で呼びつけた。
「さっさと入れ! 愚か者!」
自分を確実に恨んでいる持衰と2人になってしまったという憂鬱さも、晴彦の行動を鈍らせている一因だった。しぶしぶと玄関に入り、ドアを閉める。
消えたままのファンヒーターに再度火を入れ、無言のまま見あげると、白い顔をした少女も晴彦を見ていた。その表情には、怒りというよりは戸惑いのようなものが浮かんでいる。
「……崇志兄、寒くないかな……」
崇志は、本当はどこにいるのだろう。夢璃の家? それとも荼枳尼天の棲家? それとも……。連絡すらつけられない劣悪な状況ばかりが頭に巡り、風雨をしのげる場所にいる自分が、ひどく卑怯な人間に感じる。
「持衰さんは……蛇神を使えば荼枳尼天に勝ってくれるかもしれんのやな……」
己が呟いた言葉に驚き、慌てて否定する少年。
「それは駄目やって」
「『おれ』は何も言ってない」
持衰は目の前で七変化をする晴彦に、呆れたような表情を返した。
時刻は夜9時を回った。父親の諭に連絡を入れた晴彦は、やはり崇志からは何のコンタクトもないと知り、ますます落胆を深くする。
そんな少年の素直な感情表現を見て、持衰は剣呑な口調を少し緩めた。
「お前がそこまで気にするとは意外だったな。『ミヤ』のためなら『タカシ』が死んでも後悔はしないと思っていた」
「……後悔はせんと思うよ」
持衰より下段の位置に腰かけ、背を向けたままの晴彦は答える。
「ただ、美耶ちゃんと持衰さんをここに押し留めて、崇志兄に何も手を貸さんっていうやり方だけじゃなくて、もっと何か方法が取れないかとは考えてる」
崇志より美耶を優先する。それは兄自身の願いでもある。絶対に覆してはならない順位だ。けれど、美耶と持衰の優先度を100にして、兄を見捨ててしまういまの状況は、晴彦にも正しいようには思えなかった。
ともかく、崇志がどこにいるのか、それに見当をつけられなければ解決策も見いだせない。夢璃と行動を共にしているのなら、父母の訪問によって事態は動いてくれるだろう。だがそれ以外だったら……。
「……持衰さんは、崇志兄がどんな状況でいるか、なんとなくわかってる?」
兄の行方についてこれだけ騒いでいる間も、ずっと沈黙を続けていた持衰。もしかして、父や母の前では言いづらい事実を掴んでいるのかもしれない。そう想定して尋ねると、巫女は、
「『おれ』が入っていけない場所にいることだけはわかっている」
と、隠す様子もなく、あっさり答えた。
持衰の追跡能力の外に置かれているということは、崇志は正常な順路を辿ってはいないということだろう。持衰はかつて京都まで兄の気配を追ったことがある。つまり、普通に電車に乗り、普通に彼の地に着いているなら、持衰が見失うわけはないのだ。
持衰さんの干渉が利かない場所……。
昨日のパターンからいって、荼枳尼天の結界の中、つまり稲荷神社なら、持衰の嗅覚は鈍るはず。だったら崇志は稲荷神社にいるのだろうか?
晴彦は反射的に携帯を取りだし、聞きこんでいた美津子の番号を押した。
「東海林さんの家のあとで、稲荷さんにも寄ってもらえないでしょうか?」
そう頼むと、快い承諾が返ってくる。
一応の心当たりを押さえることができて、ちょっと安堵した少年に、持衰は複雑な顔で疑念をぶつけた。
「父母であの狐神の結界を解くことができるのか?」
「あ」
荼枳尼天の結界は、境内を一見しただけでは見つけることができなかった。昨日、そこに踏みこめたのは、持衰の力を分け与えられた晴彦自身が同行していたからだ。
ちらっと持衰を見る。細い手首に絡む金属の道具は、聞き分けのない巫女の行動を厳重に制約してくれるように感じた。
「……持衰さん、留守番……」
ひとりで置いていっても大丈夫。そう判断して、少年が立ちあがりかけると。
階段を、簡単に外れた手錠が跳ね落ちていった。
大きく伸びをして、
「何か言ったか?」
と問い返す持衰に、
「……留守番……してほしかったんやけど……」
タイミングを逸した虚しい希望を口にすると、
「お前が残ればいいだろう」
蛇神の力を蓄えた持衰は、自分より明らかに能力の劣る晴彦に対し、お前の出番はもうないとばかりに一蹴した。
※黒耳とは『災い』の意味です。




