夜叉女
何度かけても受話しない兄に業を煮やして、父と母が車を出そうとした矢先のことだった。居間に据えられた固定電話が鳴った。
母が慌てて駆け寄る。もしかしたら崇志からかも知れない。この雪で電波が届きにくくなっていた携帯同士の通話を諦めて、家にかけてきたのかもしれない。
けれど、階段で耳をそばだてていた晴彦に届いたのは落胆の声だった。続いて他人行儀な会話が漏れ聞こえる。
「崇志兄ではないみたいやけど……崇志兄に何かが遭ったって報告でもない感じだね」
持衰に話しかけると、少年に対してすっかりへそを曲げた巫女は、
「『タカシ』に何かが遭ったら、お前も覚悟をしておけ」
と視線を逸らせて恫喝した。
「……はいはい」
強情な古代人を懐柔する方法に思い至らず、晴彦は溜息混じりにおざなりな返事をする。
居間から出てきた母、それから途中で通話に加わっていた父が、複雑な面持ちで戻ってきた。
「東海林さんからだったよ」
父の説明に、未だに大きなガーゼを耳に当てている持衰はピクリと肩を震わせる。
昨日、美耶に怪我を負わせた夢璃は、まだ連絡のひとつもよこしていなかった。父も母も内心の不満を押し殺して、兄の、
「東海林自身も自分の行動を把握してなかったみたいなんだ。もう少し謝罪は待ってやってくれ」
という願いを聞きいれていた。
たしかに、昨日のことだけ見れば、夢璃は荼枳尼天に操られていたように見える。晴彦もそれは認めた。けれど、病院の父の話で、彼女が以前から美耶に対して嫌がらせな行為をしていたと知ったとき、ちょっと引っかかる感覚もあったのだ。
東海林さんは荼枳尼天に憑依されたことを利用していたんと違うかな……。崇志兄のこと好きなら、美耶ちゃんを疎ましく思っても当然やと思うし……。だからあえて……。
女の恨みや嫉妬に力を貸すという女仏を得ることができたなら、夢璃が自分の願望を叶えることも簡単になる。夢璃自身がそれを自覚していた可能性はないだろうか。
無意識に美耶の存在を庇って持衰に身を寄せた少年に、持衰は迷惑そうな声で、
「近づくな」
と牽制した。無視して晴彦は、
「電話の内容は?」
と父に説明を促す。
「崇志の行方を探しているらしいんだ。京都に行ったことは内緒にしておいたよ」
父の返事にほっと表情を緩ませると、母は、しかし眉を寄せた。
「でもなんだか……東海林さん、崇志がうちにいないことを知っていたふうじゃなかった? 普通なら最初に『在宅ですか?』って聞くものでしょう? 何も言わずに『帰ってますか?』はおかしいと思うの……」
当の本人の兄がいない中、周囲からもたらされる情報に不穏な要素が含まれていることに、誰もが神経を逆なでされる。
もし夢璃が荼枳尼天を自らの意志で利用していたとしたら。
晴彦の脳に、崇志の元恋人の存在が、急激にクローズアップされる。
夢璃に関して、崇志は『頭が悪いだけの素直な女』と表現していた。確かに、彼女の浅慮は、数々のトラブルを誘う迷惑な一面を持ってはいるが、深刻な事態を引き起こすまでの計算高さはないように見えた。
でも、たとえば。
夢璃の願望が、荼枳尼天の祟りを、直接、誘発することができたとしたら……。
中学に入ってから、急速に精神を病んだ美耶。そのころ、夢璃は、崇志との交際において美耶を敵視しつつあった……。
裕貴に乗りかえる際にすでに疎遠になっていた崇志に助力を求めたのは、もし裕貴との関係に翳が差せば責任感の強い兄は夢璃の味方につこうとする、そういう図式を狙ったものではなかったか。そして、そのとおりのことが昨日の稲荷で行われた……。
夢璃が荼枳尼天を都合よく使っていたとみる根拠については、充分に説明がついてしまう。
では逆に荼枳尼天が夢璃に力を貸す理由はなんだろうか。彼の女仏にはもともと女の情念を煽りたてる性質がある。とはいえ、夢璃にそこまで『協力』をする意味が晴彦にはわからない。
東海林さんは、崇志兄が京都に離れていた間に、妹さんを使って美耶ちゃんへの嫌がらせを遠隔してたんやったな……。
聡明な少年は、ひとつの答えを導きだす。
高校時のいじめが美耶を精神的に追いこんでしまうことは、夢璃にも当然予想はついたはずだ。その結果、美耶の口から崇志にいじめの実態が伝わることも想像に難くない。もし、妹が、自分のかつての恋人のせいで迫害を受けたと知ったら、兄はどうするだろうか……。
崇志兄の性格からして、絶対に帰ってきて、美耶ちゃんのためにいじめをなくそうとするやろうな……。
夢璃への抗議も含めた状況の改善に尽力する。恐らく、そう推定するのは晴彦ばかりではないだろう。兄の人柄を知っている人間ならば、崇志がこの土地に戻ってくることを確信できる。
それって、東海林さんというよりは実母さんのメリットになる……。
そうなのだ。京都という結界から息子を引き剥がしたかったのは、夢璃ではなく実母のほうだ。
では荼枳尼天は実母とも関係を結んでいたのだろうか。女の執着心を好物とする羅刹女にとって、死んでまで息子に粘着する実母は、魅力的な存在に見えただろう。実母の魂に憑依して、彼女を荒魂へと陥らせた夜叉の仏は、同じく崇志に未練を残していた夢璃をもとりこんだのではないだろうか。
それなら、昨日のことも説明がつくし……。
稲荷での現象を、崇志が過去に行った呪詛への返戻だとはどうしても納得できなかった晴彦も、やっと溜飲を下げることができた。
だったら美耶ちゃんは大手柄やったんやな。
京都から崇志を引っぱりだすという実母の思惑を防いでくれた美耶の判断。『お兄ちゃんにはいじめのことは内緒にしておいて』。それが適切だったことに、少年はいまさらながらに感心した。
晴彦が記憶している限りの当時の崇志は、いまよりもずっと退廃的で刹那的だった。僧侶としての修練を積みながらも定まらない覚悟ばかりを口にしていた。
「俺、本当は坊主になりたいわけじゃないんだ。自分の一生がこんなふうに決まるのは……なんて言うか……人生そのものが要らないようにも思える」
もしあのころに、崇志兄と実母さんが接触していたら……。
薄ら寒い予見が少年の背筋を粟だてる。
実母の歪んだ愛情に、崇志は呑まれていたかもしれない。
美耶ちゃんが崇志兄を京都に留めてくれたんは、美耶ちゃんの我慢強さのおかげやったんかな。それとも、暗に持衰さんが手を貸してくれたんかな。
兄をなによりも優先しようとする2つの存在に敬意を払った瞬間、晴彦の思考にまた実母の妄執が影を落とした。
自分の計画を邪魔する美耶ちゃんを、実母さんはどう思ってるんやろ……。
荼枳尼天は女の負の感情を増幅する悪鬼だ。その荼枳尼天と同化した実母の行動として、こういう道筋はありえないだろうか。
愛しい者を手中にするために、邪魔な者を排除する。
そっと横顔を覗きみると、手錠によって繋がれた手すりに額を押しつけた持衰は、焦燥からか、疲労の色を濃くしていた。
※作中の荼枳尼天の性質は初期宗教上の羅刹女を模しています。現在の荼枳尼天信仰はここまで極端な祟り神の側面を持ちません。




