伏魔
「積りはしないだろう」
玄関から外を覗いた父が、そう言いながら戻ってきた。晴彦と美津子は、同時に、
「よかった」
と笑顔を見せた。
テレビの気象ニュースでは、関西のほうが大降りの雪だと伝えている。大阪方面の鉄道には遅れも出ているということだった。京都は幸い平常運行らしいが、崇志の乗った電車が駅に着くまでは安心できない。
そんな中、
「もし電車が止まったら、車で京都まで送りに行ってやってもいい」
と父親が言いはじめたのだ。晴彦が家に残って持衰を監視し、父と母で向かうということで話がついた。
「じっとしていられない気分だもの」
元気をなくしていた母は、息子の安否に自分が関われるとなって、明るい表情をとりもどした。
晴彦は兄の携帯にまたコールを鳴らす。『おかけになった電話は、現在、電波の届かないところにおられるか……』。先刻と同じ文言をくりかえす合成音声。
「……まだつながらない?」
母の問いに、
「……はい」
正直に答えざるを得ない少年。
本当に、崇志はどうしてしまったのか……。
いくらなんでもおかしい。
晴彦も少しずつ異常を感じはじめていた。
例えば、何かトラブルがあってバスに1本乗りそこねたとしても、崇志の居場所は、もう確実に地上を走る特急のはずだ。地下でないなら電波は届く。それなのに、会話はともかく、受話すらないのはなぜだろう。
兄と連絡が取れない理由に思考を巡らす。何か遭った? 遭ったのなら、それは何か? 実母の害が最大になるのは大祓の明日。いまはまだ、それほどの影響はないはずだ。
傍らの持衰にちらっと視線を送る。内心で、持衰の力を頼りたい、と願ってしまう。
そんな自分を叱咤して、少年は、感情を殺した顔を、階段下の床に背けた。
持衰の害意から娘の体を守って抱きつづけていた美津子が、ぼそりと誰にともなく呟いた。
「安江さんはどうして崇志に祟ったりするのかしら……。崇志が私たちに懐くのが悔しいのなら、私たちに祟ったらいいのに……」
実母の感情が、単純に『死者として置き去りにされる妬み』だったのなら、それもあっただろうと、晴彦も思う。でも。
「実母さんは寂しいんやと思います。だから、崇志兄が憎いと言うよりは連れていきたいんと違うかな。でも崇志兄は、あれで案外しぶといし」
いったん軽口で雰囲気を変えると、美津子は小さく笑った。続ける。
「だから、なかなか連れていけない崇志兄に対しての焦りが、荒魂へと変わっていく隙を作ってしまったんやと、オレは思います。実母さんも自分から荒魂になりたかったわけやない。……普通の暮らしをしてるオレたちだって、強い執念を持ったら、おかしくなることはあるやろうし」
実母の行為に自分を重ねる少年に対し、
「ハルくんはそういうことはなさそうよ」
美津子は軽く首を振って否定。そして、複雑な感情を含んだ微笑みを浮かべた。
「私にはそういうことはあると思うけど……」
もぞもぞと頭を動かし、持衰が母の顔を見据える。晴彦も改めて視線を向けた。
「……安江さんは私がいるから崇志を取りあげようとしているんじゃないわよね……?」
ためらいながら告白しかける美津子に、父が近づいた。
「考えてみれば、俺たちのしていたことも、『荒魂』に近い行為だったのかもしれないな」
苦笑を浮かべながら、そう囁く。
『崇志がうちの子になってくれたらいいのに』って、ずっと思ってたの。美津子は、自分がそう願った経緯を、晴彦に説明しはじめた。
実母の安江が幼かった崇志を抱えて精神的に引きこもってしまったこと。その話を、安江の夫からずっと相談として聞いていたこと。だから強く同情したの。と。
けれど。
「でも本当の理由はそうじゃないのよ」
抱えた娘の髪を撫でながら、母は言う。
「安江さんが崇志を他人に任せられなくなったのは、私やお義兄さん……崇志の実のお父さんのことなんだけど、その実父さんのことが信用できなくなっていたからなの」
そう言って、父に目を向ける。
父は、義息子によく似た苦い表情を浮かべて、続きを引きついだ。
「安江さんは……いや、やっちゃんは、もともと俺の婚約者だったんだ。だから、兄貴と結婚して崇志を生んでからも、俺たち……特に母さんの目が気になったみたいなんだよ」
結婚の準備までして迎えようとした矢先に、一方的に婚約を解消されてしまってね。
父は、長い期間が恨みを消化させたおかげだろうか、特に感情を荒げることもなく淡々と語った。
婚姻の手はずが整うにつれ、強い不安を訴えはじめた安江。もともと神経質で気の弱いところのあった彼女が、結婚という重責から逃れたがっているのは、父にもよく理解できた。だが。
「俺は、やっちゃんは家庭に入ったほうがいい女性だと思いこんでいたから、そのあたりの話はあまり聞いてやらなかったんだ。可哀想なことをしたと、いまでは思っているよ」
自分の意志を通してしまったことを、いまさらながらに反省する。
逆に、美津子の姿勢は、未だに実母に批判的だった。
「結婚って感情だけでしたりやめたりできるものじゃないのよ。安江さんが勝手な行動を取ったせいで、この人は全部の後始末を押しつけられることになって、大変な思いをしたんだから」
婚姻という手続きに関しては、さすがに無知に近い晴彦だったが、実母の行いが誉められたものではないことは想像に難くない。すべてをやり残したまま、父を捨てて逃げた安江。無責任極まりない行動だと思うし、崇志の実母だからといって、あえてフォローしたいとは思わなかった。
それに……。
「……お父さんとの結婚からは逃げたのに、お兄さんと結婚したというのは……」
不徳を重ねるにもほどがある、としか判断できない。
父は曖昧に、母は強く頷いて、父のほうが言葉を継いだ。
「そう。いつの間にかね。俺の両親は俺の味方についてくれて、兄貴とやっちゃんとの縁を切るまでしたんだ。だから兄貴たちとは、そのあと、ずっと会うことはなかったんだけど」
息子が生まれて数ヶ月が経ったころ、その兄から、こっそりと父に連絡が入ったという。
「やっちゃんが精神的に参っているって報告だった。生んだ子ども、つまり崇志を、俺の子どもだと言い張っていたみたいなんだ」
父の語る内容に、理解力が超えそうになった晴彦は、困った顔で母に補足を求めた。
「今度は子育ての重みに耐えられなくて、またみんなを引っかきまわそうとしたのよ、安江さんは」
美津子は、きつい言い方ではあるが、的確に実母の人柄を表現した。
以前、崇志が諭に語っていた内容を、晴彦は思いだしていた。
「子どもの聞く話じゃねえよ」
と邪険に扱われた話題。そのとおり、当時は意味がわからなかった。
俺の名前に『崇』っていう字が入ってるでしょう。これ、養父の名前の一文字なんですよ。でも、実の父さんにはこの字は入ってないんだ……。
自分の遺伝子が、実父から引き継がれたものではなく、養父からのものだったのではないか。そんな危惧を口にしていた崇志は、
「だから、あの人たちと一緒にいるときは、少し構えてしまって」
と心苦しさを吐露した。
青年が、このあとから盛んに口にするようになった『ある負の決意』。その心情に駆り立てたものは、この生い立ちに対する杞憂が無関係ではなかっただろうと、いまの晴彦なら推測できる。
「俺がいなかったら、早川家は誰もおかしくならずに済んだんじゃないかって思うんです。だから、俺、もう、あの家には帰れないんだ」
「お父さんはどうだったのかわからないけど、私は安江さんが憎くて……」
母は、美耶の髪の中に顔を半分うずめながら、暗い声で呟いた。
「安江さんなんかいなくなってほしいって……死んでほしいって、いつも望んでたのよ」
母が抱えた少女の腕が、布団の中からそっと伸びた。細い指が美津子の髪を絡めとり、そのまま頭を撫でさする。
「荒魂は特別な存在ではない。人間の中にも当たり前にあるものだ。穏やかな凝々と荒ぶる凝々を持つことは、恥ずべきことではない」
悔恨に溺れかけている母を、巫女の強い声音が引きあげる。
早川家に何度も暗い影を落とす安江に対し、美津子が強い憎悪を抱くのは自然なことだ、と晴彦も思う。
それにしても。
「そういうことなら、むしろ、実母さんとはもう関わりたくないと思うもんと違いますか? 崇志兄を引きとったら、ますます、お母さんは苦しくなるんやないですか?」
美津子が死者となった安江から目を背けるのはたやすいことだろう、と少年は考える。その安江の子どもをわざわざ身内に引き入れるという行為のほうが理解しがたい。
「そうしたら、崇志はどうなるの?」
母は涙ぐんだ目を上げて、本気で不思議そうに聞きかえした。
「……ええっと……ちょっと違うかもしれないけど、私が望んだように安江さんは死んでしまったんでしょう。その結果、崇志はお母さんがいなくなっちゃったんだもの。私が育てるべきじゃない?」
「……でも……」
安江の死と美津子の恨みは、正確に言えば因果関係はない。それなのに孤児の成長にまで責任を負うのは、晴彦にとって『美津子の自己犠牲』と映ってしまう。
「やっぱり違うわ」
少年の理屈を聞いた母は、微笑んで、やんわりと否定した。
「お義兄さんがああいう状態で家を出ていたから、崇志の引き取りに手を上げる人は、うち以外にいなかったのね。私とお父さんが引き取らなかったら、崇志は施設行きだったの。崇志にとってどっちがよかったかは……ちょっと私には判断できないのだけど、でも、もし、うちで育つほうがあの子のためになったのだとしたら」
そこでゆっくりと間を取り、適切な言葉を探す母。
「ああ、そうね。これならわかってもらえるかしら」
明るい表情で、少年に対し、疑問を解く。
「崇志がうちに来たのは、私が崇志を引き取りたいと言ったからじゃない? それで、私が崇志を引き取りたいと思ったのは、私が安江さんを憎んだことがきっかけじゃない? 安江さんが亡くなったのは単なる事故で、崇志が施設に行くことが1番当たり前のことだとしたら、私が罪悪感を持ったおかげで、崇志は、当たり前の人生より、ほんのちょっと恵まれた生活ができるようになったんでしょう? だから、私は崇志に対して『育てる義務』を感じていたいの。そうすることで、あの子は1段上の生き方ができるんだもの」
母の考えの中には、崇志がいかに幸せになるかという計算しか含まれていない。
養母の想いの強さは、実母の子への愛情を凌駕しているように、晴彦には見える。
お父さん、お母さんにとっての崇志兄は、間違っても実母さんに負けるわけにはいかん存在なんやな……。
崇志を京都に追いやった自分の判断に、今度も少年は大きく迷う。
「お前も、自分のことより『タカシ』のほうが大事なのだな」
悩んでいる晴彦の耳に、持衰の嬉しそうに上気した声が届いた。
「親だもの。親ってそういうものよ」
母が娘に力強く語る。
「だったら、『おれ』を連れて『タカシ』の後を追ってほしい」
持衰の懇願に、
「持衰ちゃんが崇志を助けようとしてくれるのは嬉しいけど」
母はためらう。
蛇神の力を使って崇志を救う。そのために自分と美耶が犠牲になっても構わない。
いっこうに考えを改める様子のない持衰に、晴彦は内心で溜息をついて、『やっぱり崇志兄と持衰さんを離したのは間違ってないな』と迷いを撤回した。……撤回するしかなかった。




